방정웅 湊川高校・朝鮮語教師の物語 

在日総合誌「抗路(八号)」(図書出版クレイン)に方政雄パンジョンウンさんが寄稿した文章(筆者自ら一部加筆)を以下に転載します。「物語」は1985年春から始まります。

舞い込んだ「矢」

私が神戸市にある兵庫県立湊川高等学校(定時制・在籍数約一五〇名)の教師になったのは三十四歳、一九八五年四月からである。「教師になった」という言い回しは、後から振り返ってみた時の言い方で、その時点ではそのような実感はなかった。

その半月前、いつものように油まみれの作業着姿で夜遅く家に帰ると妻が玄関で私を捉まえ、黙って奥の部屋を指さした。見知らぬ男二人がちょこんと並び正座をしている。

「湊川高校の朝鮮語の先生になってくれ」というキツネにつままれたような話に「ええっ」と目を見開いた。まずは朝鮮人で、高校の教員免許があり、朝鮮語が分かる人、その検索に私が引っかかり、「白羽の矢」が舞い込んできて立ったらしい。

私が教員免許をとったのは大学を卒業した後、科目等履修生として必要単位を取得した。朝鮮人でも公立学校の先生になれるらしい、何かの役に立つこともあるかもしれない、と人に勧められた。それから十年は過ぎていた。神戸の湊川高校で朝鮮語授業をしているということは聞いていたが、実際のところは関係のないよそ事だった。私が高校で朝鮮語の教師? 想像したこともない。

その時私は電気工事屋に勤めていた。親方を入れ従業員五人、もっぱら孫請け専門の日雇いのような仕事だった。

バブル期の頃で、近所の小さな電気工事店が儲けて、あっという間に自社ビルを建てた。電気工学科卒の私としては、これだとひらめいた。朝鮮人差別は確かに社会にあるけれど、お金さえ持っていれば差別されても九十九パーセントは生きていける。よし、電気工事の会社を作り、豪邸を建てベンツに乗り、内ポケットには常に二百万円の札束を、と在日二世がこの日本で生き抜く生活を妄想した。その電気工事のノウハウを学んでいた矢先だった。だからこの話は断る話だ。

ところが、その二人を見ていると、執念というか、もし私が引き受けなかったらその場で腹でも切るような悲壮感も見てとれる。これは邪険にできないし、無碍に断れない気配を感じた。「まぁ、ちょっと考えさせてください」、ワンクッションおいてから断ろう。そしたら「卒業証明書だけでもいただけませんか」と言う。教員免許は未申請だと告げたので、卒業証明書だけでも、ということらしい。

後から分かることだが、二週間もすれば新学年度の授業が始まり、次の教師が見つからないと「朝鮮語」が先細りとなりいずれ閉鎖されていく、そういう危機感があった。校長には私がすでに承諾していると伝え、綱渡りの心境で来ていたそうである。外にもう一人が待機していたのは分からなかった。すぐにその人が東京行きの夜行バスに乗り、大学まで卒業証明書と単位取得証明書を取りに出かけた。

数日して一度学校に来てくださいと連絡があった。話が後戻りできなくならないうちにはっきり断ろう、と指定された日に出向いた。

職員室に入ると、校長が待っていて、開口一番「よく来てくれました」。あなたの机はここ、校務分掌は教務部で、時間割はこれで授業は来週からです、と矢継ぎ早に言われる。家に来た先生をはじめ何人かの先生方が私を囲み、湊川高校の朝鮮語授業の経緯や内容などかいつまんで教えてくれる。ともかく今日は歓迎会で店も予約しているので行きましょうと。みんなで抱きかかえられるように店に連れこまれ、焼肉を食べさせられ、飲まされた。朝鮮語をみんなが守っているというのをひしと感じた。

辞めるのはいつでもできる、暫くは様子を見よう、酔いの回った頭でそう考えた。当時湊川高校の朝鮮語教師は金時鐘先生と劉精淑先生の二名だったが、劉先生が急遽退職されるという事情だった。

湊川高校の朝鮮語

湊川高校の「朝鮮語」は公立高校としては全国で初めて、一九七三年に必修科目として開講された。経緯とその時の学校の様子を、当時全校生徒に配布された「生徒のみなさんに」により見てみたい。少し長いが引用する。

「明日から授業のうちに『朝鮮語』が取り入れられ、全クラスそれぞれ週二時間『朝鮮語』学習が始まります。突然のことで驚かれている諸君もあろうかと思いますが、なぜ本校で『朝鮮語』を正課として取り入れ、本年一学期より始めるかについて、湊川高校教員集団の総意にもとづいて、少しそのいわれを述べたいと思います。……かつて朝鮮人より『朝鮮名』を奪い、朝鮮語を口にすることを朝鮮人に禁じ、あえて朝鮮語を守ろうとした者にとってはその生命までも奪ってきたのは、やはり日本人全体であったわけです。本校に在籍する在日朝鮮人生徒が『朝鮮名』を名乗ることは、それだけですまないことはわかりきったことです。まず日本人教員が彼等を正当に外国人として自らの中に受け入れねばなりませんし、生徒の皆さんも日本と朝鮮との関係を事実にもとづいて知っていくことを始めなければなりません。

……明治以来、下から上を見る関係で進められてきた『外国語』教育の中に『朝鮮語』が占める位置などなかったことを振り返って、素直に『朝鮮語』を第二外国語としてカリキュラムの中に取り入れ、『朝鮮語』を他のヨーロッパ民族の言語を学習することと同次元に置くことにしました。目的は、『朝鮮語』を素直に発音し、学ぶことを通して、他のすべての民族に対し、とりわけ朝鮮民族に対し、……水平の関係で相手を視ることができる、純良な『日本人』を形成するための新たな一歩をはじめたいことにつきます。湊川高校に卒業必須単位認定にもとづく第二外国語『朝鮮語』を開講するための理由は以上の通りです。……」(兵庫県立湊川高等学校『音高く流れぬー湊川高等学校五十周年記念誌ー』一九七九年刊)

湊川高校の朝鮮語授業は隣国・朝鮮半島の言葉を習得するだけではなく、歪んで持ってしまっている隣国の意識を正して水平の関係を築くこと、また同時に隣にいる韓国朝鮮人を理解し、共に暮らしていくことを目的に開講された。

湊川高校で始まった朝鮮語(朝鮮半島の「ことば」の呼び方は、「朝鮮語」「韓国語」「韓国朝鮮語」「ハングル」「コリア語」など半島が分断している現状や時代を反映し様々に呼ばれている。古くから伝統的に開講している学校、例えば東京外国語大学や大阪大学・外国語学部⦅元、大阪外国語大学⦆などは「朝鮮語」である)は、今や全国の三四二校の高校で教えられ、履修者一一二六五人である(二〇一八年五月一日現在・文部科学省)。二〇〇二年度からは大学入試センター試験に導入された。また幾たびかの日韓の「不協和音」の中にあっても「韓流」は定着し、カルチャーセンターや市民講座等、学ぶ人たちは増加しており、NHK語学講座のテキスト販売数は欧米の言語を抜き、常に上位の位置にある。

しかし当時は、今以上に外国語といえば疑う余地もなく権威に満ちた「英語」であり、朝鮮語はその対極にあって最も学ぶ価値のないことばであった。私が湊川高校で勤め始めた時ですら、「しょうむない勉強せんと、『フランス語』せえや」「朝鮮語で進級出来なかったら、暴れたる」「朝鮮語に文法があるのか」、生徒に真顔で言われた。偏見、差別の対象者の言葉を授業ですることへの不承知、反発であった。

「なぜ朝鮮語せんなあかんねん」、それは湊川高校の生徒を介して言わしめている日本一億人の意識の総体であり、まさにその対峙する場が朝鮮語授業でもあった。そういうことを先輩教師から教えられたり、また授業をしていくにつれて徐々にその意味が実感として見えてくる。これは当事者の朝鮮人としては、安々とは身を引くことができないなあ、とそんなことを感じはじめた。

朝鮮語を全く知らなかった在日二世の私が自民族の言葉を学び始めたのは、いわば奪われた「民族の魂」を取り戻す大切な取り組みとしてであって、人に教えるために学んだ朝鮮語ではなかったので湊川高校で教えることに不安があった。そもそも私の教員免許は「朝鮮語」ではなく「工業(電気)」である。

任用形態も不安定な期限付きの講師だった。一九九二年度の教員採用試験から全国的な国籍条項撤廃で、初めて採用試験を受け合格し本採用となった。その後、韓国への語学留学をはじめ「朝鮮語」また「社会科」の教員免許も取得することになるが、それはまだ先の話である。

朝鮮語授業教材の工夫

朝鮮語授業の手ほどきを金時鐘先生から受けた。初めのころは先生の授業に生徒のように参加し、朝鮮語の指導法や評価法、生徒対応、教材の作成や板書の仕方など細やかなノウハウを学んだ。まさに「見切り発車」であった。

今でこそ朝鮮語のテキストは書籍売り場にコーナーができるほど潤沢にあるが、当時は数えるほどで、どれも高校生を対象にはしていなかった。勢い教材は自家製で、プリントの自主教材である。金先生はすでに体系だった教材を作られていた。

教材に親しみを持たせるためにプリント教材にはイラストが描かれている。子音と母音の字母が合わさって文字(ハングル)となるのだが、その説明をするためのイラストが男性と女性の相合傘で、その男女が漫画的でなく、悩ましい感じがするくらい実に写実的に描かれていたのを覚えている。

朝鮮語を日本の高校で初めて教える、生徒たちの朝鮮語に対する反発もあり、また生徒間の学力のばらつきが多い定時制ということで、金先生は教授法や教材・教具も色々と工夫されていた。ハングルの発音を教えるとき、発音記号で表記するとアレルギーを起こす生徒が多いので、「発音がな」という表記法を考案された。つまり朝鮮語の発音は日本語にない音もあるので、日本語と同じ発音の場合は「ひらがな」表記、ない音は「カタカナ」表記とし、また終声子音の発音表記も「カタカナ促音」という「かな表記法」がそれである。

独創的なアイデアで生徒に分かりやすく教えられ、高校教育における朝鮮語教授法開発の草分け的な存在でもある。悩ましい相合傘のプリントも含め、金先生の教材プリントは今も大切に保管している。

湊川高校での教師生活 

もう一つ、そう簡単には辞められないと思ったのは生徒たちとの出会いだ。初めはとんでもないところに来た、と思った。

最初の授業は今でもはっきりと覚えている。朝鮮語は二学年から四学年まで各二単位必修で、卒業まで六単位取得となっている。私の初めての授業が四年生であった。授業「導入・展開・まとめ」の流れも暗唱したし、板書も何度も練習して準備万全で授業に臨むが、やはり緊張と不安は払拭できないでいた。

戸を開けると生徒みんなが鞄を机の上に置いて私を見ている。教卓前に行くと一人の生徒がむっくと立ち上った。大柄で肩から腕の筋肉が盛り上がり、頭は乱れぬリーゼント、首には金のネックレスが光っている。四年生・十九歳、立派なあんちゃんである。もし街で初対面で会えば道を譲り、目を合わさないように避けるに違いない。「腕相撲しょ。俺が勝ったら授業なし、負けたら授業したれや。ええか」と。「えー、ま、まあ待てや」と内心ドキドキの私。クラス二十名ほどの生徒はくすりともせず成り行きを注目している。

新しい朝鮮語の先生で、なんか柔道もしていたということやから、お前一丁もんだれや、ということだろう。「そんなんせんと、授業やろうや」私の声が上擦ってくる。しょうむないこと言わんと、早よやらんかえ、みんなの目が声をあげ、最終授業のため帰り仕度で待っている。その生徒は金のネックレスを揺らしながら教卓前にやってきた。

よし、負けられない、コケにされたら明日から授業できない。大きく深呼吸をし、ゆっくりと吐いた。教卓で組み合った。みんな固唾を呑んで見ている。相手は予想通り強かったが、気合でどうにか勝った。その授業時間、チョークを持つ手が震えてミミズが這ったような文字になった。

その生徒とは「友だち」となった。朝五時には起き、市場や商店街のごみの回収をしている。魚のはらわたや生ゴミの臭いが体に染みこんで、夏は鼻が曲がるほどになる。冬は氷のように固まったゴミをパッカー車に投げ入れる。仕事は休まない。ヤンチャもするが筋金入りの「勤労生徒」ということが後でわかる。腕相撲に勝ったからそれからは静かに授業ができた、というのはテレビドラマの世界で相変わらず授業はうるさかったが悪い関係にはならなかった。

男子体育の授業である。その時間帯に授業のない先生方はジャージに着替え「応援」にグランドに行く。「頑張れー」という応援ではなくグローブをはめ外野のバックを守るのである。体育教師だけでは授業として収めきれず応援に行くのである。サッカーなどは接触プレーがありトラブルが起こりやすいので、もっぱらソフトボールが多かった。生徒が打った後に一塁ベースに五十CCバイクに乗って、滑り込みしたときには驚いた。グランドを見ると夜間照明に照らされて、何台ものバイクがトンボのように気持ちよさそうに回っている。

教師の打席はないが守備は担当する。私がキャッチャーをしたとき、バッターがいきなり頭をスイングしてきた。とっさに首をすぼめる。寸止め、紙一重でバットは止まる。その生徒の顔を見るとにやにや笑いながら、「お前が、今度来た朝鮮語のセンコか」と。これが親しみを込めた挨拶であり一種の「愛情表現」だということが分かるまでには時間を要した。

この生徒はその後も何かと寄って来た。朝鮮人の父親はすでに亡くなっており、韓国には父親の親戚がいて手紙や電話がきたりする。センセ、一度家に来て韓国に電話してくれないかと言う。その後何度か家に行き、代理で電話をしたり、手紙を訳したり書いたりして家族の人とも親しくなれた。今は日本籍だが父親のことは隠さず大切にしていきたいという。

一見すると乱暴そうで言葉も荒く態度も良くない。敬遠しそうになるのだが、関係性ができてくるとその言葉や態度の裏に生徒が言いたいことや訴えたいことが見えてきたりする。「台風」の周辺は暴風雨だが、中に飛び込むと中心は無風で青空が見える。有難くも、以後何度かそんな経験をした。

被差別側生徒の「荒れ」

湊川高校の校区には都市部落では最大と言われる地域があり朝鮮人も必然的に多数在住している。部落、朝鮮の子どもたちは差別世界の中で植え付けられた「荒れ」を抱えて生きてきた。部落は何百年間もおとしめられ社会的に封じ込められてきたし、朝鮮は侵略され奪われ、同じく被差別側に落とされ社会的に外されてきた。 

こんな中学生の話を聞いた。その生徒は朝になると先生が車で家に迎えに行き、起こし、喫茶店のモーニングを食わせ、学校まで連れて行く。学校では級友と同じ教室には入れない。入れると授業ができない、壊され成り立たない、という理由だ。別室に連れて行くとそういう子が何人かいて自由学習、つまりホッタラカシにされている。学校が終わるとその生徒らを積んで荷物のように家に送り届ける。いわば「臭いものにふたをする」扱いで、隔離して教育の場から外している。それで学校の平静さ、あるいは優秀さを取り繕っている。外されるのは圧倒的に被差別の側の生徒たちだ。

その「荒れ」を抱えた中学生が経済的、学力的な面から定時制の湊川高校に入学してくる。疎外され「邪魔者」「お荷物」や「腫物」に扱われた生徒たちが「既製品」の生徒たちのような振る舞いができるはずがない。「うるさい、あっちいけ、しばくぞ」、湊川高校での彼らとの初めての対話はそれであった。

その「荒れ」は被差別者としての私が、物心ついたときに持った思いと共通した。一九六〇年代私が学校に行き始めたころ、「朝鮮」が嫌でたまらなかった。知恵がつくと、「粗野で教養もなく、貧しく浅ましい」同族の姿が具体的に見えてきて、日本人が普通に持つ偏見、差別意識が同じように育成された。親たちは貧しさのなか生活に追われ、子どもを顧みる余裕すらない。その差別的な現実は歴史、社会的に追い込まれた結果だとは、見える現象だけを世界として捉える子どもには分かるはずもない。朝鮮語の響きでさえ嫌悪感を覚えた。幸い、肌、目、髪の色も同じだから、出自を隠し自分さえ黙っていれば分からない。「朝鮮」から逃げ、より「日本人」らしいふるまいをする。日本人の級友が「チョーセン」を貶める言葉を吐く以上に、同族を辱める言葉を重ねることにより日本人としの安定した地位を保てるのである。

しかし自分自身の荒む心は騙せない。「日本人」になればなるほど、日本人ではない朝鮮人としての溝は更に深まり、もがくほど蟻地獄のような苦悩が生まれる。そして追い打ちをかけるように朝鮮人を受け入れない「落とし穴」のような社会現実も分かり始める。

学校の先生のいうことを聞いて、まじめに頑張って勉強すれば報われるのか、希望する未来が約束されるのか。そんな疑問が学ぶほど具体的な問題として意識の中に浮上してくる。何をしても意味がなく、虚無が心を支配する。

私が育った雨漏りする一間のバラック小屋。家族六人の生活。父がやっとありついた日雇いの貧しい暮らし。寝起き食べる家族生活の六畳、どこで勉強をすればよい? 仮に頑張ってもしょせん親と同じ道が待っているだけだ。知るほどに斜にしか社会を見ることができず、虚勢を張り生きていくしかない。「うるさい、あっちいけ、しばくぞ」と言うことで、倒れそうになる自分をかろうじて立たせている。自分と同じ、突っぱってしか生きていけない生徒を感じた。

高校で「自分」と出会う

「朝鮮」は口が裂けても隠さなければならないもの、それは私が日本社会、学校で体得した感情であり、生きるための悲しい知恵でもあった。一九六七年、高校に入り担任から言われた。「本当の名前(本名・民族名)で、朝鮮人として生きろ」と。頭が真っ白になり冷や汗が出た。「うるさい、オレを本名で呼んだら、学校やめる。いったい何の権利があっていうのか」怒り反発もし、そして何よりも恐れた。

一九六五年、「同和対策審議会答申」が出され、部落差別の解消は「国民的な課題」であり、「国の責務である」と明記された。学校現場においても部落出身生徒に対する取り組みが明確な教育課題となり始め、就職や結婚差別等同じような状況にある朝鮮人生徒の存在も、意識ある日本人教師たちに見え始めてきていた。恩師となるその担任の言葉はそのような経緯と背景があったということが、私が教師となり、湊川高校の教育実践を共に模索する中で分かってきた。そして同時に、その担任の教師としての決意と苦悩にも、今は思い至らせることができる。

一九六〇年代後半から兵庫県内、特に阪神間において、部落出身生徒や朝鮮人生徒等が自分の置かれている非人間的な被差別の状況を学校は、教師は、何ができ、どう教育してくれるのかと迫っていった。いわゆる「一斉糾弾」と呼ばれる教育運動が燎原の火のように広まっていった。湊川高校の朝鮮語授業はそれに答えるべき必然的な課題として提起され、そしてシンボリックな位置として大きなエネルギーと陣痛を伴い開講された。

その教育運動の中で、私は泣きながら本名を名乗り、「朝鮮人」であることに目覚め始める。その担任との出会いがなければ自分の民族・出自を呪い、斜に構えた生き方をしていたことだろう。被差別側の教師として同じ思いを持ったその「荒れる」生徒に寄り添い、共に歩むこと。いつでも辞めればよいと湊川高校に入っていったが、授業をし、生徒たちと触れ合い、これは簡単に引いて辞めるわけにはいかない、そんな思いが芽生えて、以後定年そして再任用と三十二年間務めることになる。

教育実践を突き動かすもの

当時湊川高校は、一切の差別を許さず、部落出身生徒や朝鮮人生徒等、被差別下に置かれている生徒たちが差別に打ち勝ち、自己実現を図ることを教育目標とする「解放教育」の拠点校として、日々はいずりまわるような教育を模索し実践していた。

湊川の先生方の多くは、誤解を恐れずにいえば、「原罪意識」を持っているように感じた。人間が生まれながらに持っている「罪」のことだ。

被差別の側で何世代も疎外された結果として再生産されてきた子どもたちの「荒れ」は、結果として「当教師」を含めた差別者側が、代々にわたり創ってきたし、なおかつ今もおとしめ温存しているという意識だ。

教師としてどう対応するのかを超えて一人の人間として、どう向きあっていくのかという問題意識をかかえていたように感じた。これは私の一方的な見方かもしれないというのは承知の上の話だ。

だから、教師は人間として、被差別側の「荒れている生徒」から逃げることはできない。つまり、目覚めた人として「原罪」からは逃れることはできないという深い思いがあった。

教師生活のすべてを被差別側の生徒と歩み続けた先輩教師は、こう言い切っている。「分かったことは、私はいつでも部落、朝鮮から逃げることができる」と。自分は、部落や朝鮮ではない、この瞬間にでも教師を辞めて「逃げる」ことが出来るんだという。それは、逃げないという宣言でもある。もし湊川高校の教師をやめて部落、朝鮮問題から逃げたなら、「世捨て人」として生きていくしかない、そういう教師としての決意を聞いた。

被差別の側に寄り添うというのは、根底のところでその問いがある。湊川高校の心ある先生方は、それを愚直に実践してきたと思う。

信頼関係が基底の授業

昼間は若年労働者として働き、夜は学校に来て学ぶ。経済的に苦しい生活保護家庭やひとり親家庭が多く、親のDVから逃れている生徒もいた。神戸市内に二つある夜間中学を終え、湊川高校にたどり着いた高齢者生徒(全生徒の約一割。六十~八十歳代)は在日一世たちが多かった。また、全日制高校から問題行動があり「進路変更」という名目で来る生徒、あるいは学校に馴染めず不登校だった生徒、全日制では弾かれる知的身体的「障がい」を抱えている生徒、二〇〇〇年代に入ると韓国朝鮮以外に中国、ブラジル、ベトナム、フィリピン等の生徒たちも増えてくる。

一クラスの生徒数は全日制程ではないが、教育的課題は非常に多い。学力や年齢差、「障がい」の有無、国籍など多様な生活背景を持った生徒に必修として朝鮮語を教えるのである。

私は朝鮮語授業で心掛けたことは、日本語や日本文化と常に関連づけて教えるようにした。同じ語族に属する「兄弟語」としての位置づけで、朝鮮語を学ぶことで日本語や日本文化が合わせ鏡のように相対化でき客観的に見ることができる。文法が似通い語順が同じで助詞があり、共通認識が持てる漢字の言葉も多く、日本人が馴染みやすい外国語であるとも伝える。

他教科からの朝鮮語授業を意識した「援助」もあった。社会科からは「朝鮮通信使」など、古代から現代までの朝鮮半島との関係を、理科ではキムチの発酵の仕組みを、家庭科では韓国料理を実習で作り、音楽では朝鮮民謡「アリラン」を歌ったり、国語科では朝鮮に関する文学や随筆など、例えば柳宗悦「光化門」を取り上げてくれたり、朝鮮語を取り囲む授業をしてもらった。

二年から始まる朝鮮語がスムーズにいくように、一年時に私は「現代社会」を教え、生徒との信頼関係を築けるようにと心がけた。また普通科でも「工業」の授業は「学習指導要領」上も可能で、家庭で役立つ電気工事実習や(電気工事の仕事が役立った!)、てんぷら廃油を使った石鹸作り、自家製の紙すきの道具などを揃え、物理室で創意工夫の生活に根差した「工業」関連の実験実習授業も行った。 

私も学生時代に経験したが、あの授業は嫌いだけど、あの先生なら受けよう、そのような関係が築けるようにと朝鮮語以外の担当授業にも力を注いだ。また休み時間や学校食堂での給食(米飯の完全給食)時など授業以外でも、常に生徒との対話を意図的に多く持つようにした。問題を抱えている生徒やヤンチャな生徒ほど関わり合いを深めたいと思った。

朝鮮人の教師なら同胞の生徒からは先輩として邪険にはされないし、朝鮮語授業も積極的に参加するだろうという思いがあったが、そんなドラマのような甘い関係とはならない。疎外され、日本名(通名)を名乗り朝鮮を隠し、日本で生きてきた生徒にすれば、むしろ朝鮮人教師の存在が疎ましいのである。親しくすると朝鮮がバレる思いを持ち、同磁極のように反発し遠ざかることがある。その思いは私には痛いように理解ができる。

日本人生徒を含め、朝鮮語授業の中で、言語を教えると同時に列島と半島の関係史や文化をも教え、「うるさい、あっちいけ」の歪んだ関係をほぐし、信頼関係を築いていく。それが朝鮮語授業を成立させる大切な担保であるとの信念が常にあった。

卒業の値打ち

この間、教科指導だけでなく、担任を持ち何回もの卒業生を送り出してきた。様々な課題を背負った生徒たちとの「物語」を限られた紙面では書ききれないが、担任を持った一人の在日生徒Kのことを書きたい。 

私はKが三年の時から担任となった。一年から傍若無人でしたい放題だった。授業中も大声をあげ、当然のように勝手に出入りし仲間もそれに連なり、当時の担任も手を焼き指導が難しい生徒で、何度も特別指導を受けていた。

バイクの窃盗が見つかり、これまでも余罪があるということで少年院へ送られる。少年院でも事件を起こしすぐに出ることはできず、学校に復学するという条件で一年ほどして戻ってきた。

担任を誰がするか、ということになり、結局私がすることになった。Kにしたら私が同じ朝鮮人であろうと関係ない、ただのうるさい教師だ。保護観察もつくし、少しは神妙にするだろうと思っていたが、そんなことはなく仕事もせず、以前と同じ行動をする。

母国語の授業でもあるはずの朝鮮語授業も眼中にない。挨拶の「アンニョン ハセヨ」くらい覚えろというが、マンガを読み、連れとだべり、教室を自由に出入りする。他の教師とぶつかるのは日常茶飯で、消火器を廊下中にまき散らす、教室のカーテンをライターで焦がすなど、校内でトラブルが絶えない。校長訓戒の指導中に校長に文句を言い、言い合いとなったりする。家庭訪問をしても、親も頭を抱えている。崖っぷちにへばりついているような小さな家で、私が育った家と同じにおいがした。先生、うちは「帰化」するからあまり相手をしなくてもいいですよ、と親が言う。

夜間中学からきた朝鮮のハルモニ(おばあさん)生徒がクラスに二名いた。ひとりは心臓が悪く薬を常用している。授業中にKが思いっきりバアンと戸を開け「遅刻した」と大声で入ってくる。心臓発作を起こすからやめるように、お前のおばあちゃんと同じやないのか、こんこんと言うが聞く耳を持たず、その後も同じことをする。少年院から戻ってきて、謹慎や特別指導を何度も受け、次、問題行動をすると退学という雰囲気もある。卒業させたいと今まで庇ってもきたが、本当にどうしょうかと悩んだ。

ウリ(我らの)ハルモニもないがしろにして、朝鮮人の風上にも置けないやつだ、がもう一度だまされようと腹を括った。みんなに迷惑ばかりかけ注意することしかないが、我慢して何かいいことを見つけて褒めていこうと。二人で話す機会を狙う。しかし話なんか聞かない、基本「うるさい、あっちいけ」だ。辛抱し、粘り強くやさしく話しかける。今日は戸をガンとせず閉めてくれてありがとう。マンガ仕舞ってくれてありがとう、授業しやすいわ。中抜けせんと授業よう頑張ったな。意識して見つけ、接した。

時間が必要だったが心の扉が少しずつ開いていき、機嫌のいい時などは、将来したいことや夢などぽつりぽつりと、ぶっきらぼうに喋る。私はこの時ばかりと自分の生い立ちや、高校時代、朝鮮が嫌だったこと、先生との出会いで朝鮮人を自覚し、もがきながら本名を取り戻したこと、学校推薦の就職を落ちて悔しかったこと、また教師になったいきさつなど、何度か話した。このまま何事もなく卒業してくれ、祈るような思いが続いた。

Kが卒業して何年か経って街でばったり出会った。私は出勤の途中で、作業服を着たKは仕事が終わり家に帰るところだと言う。聞くと、早朝からごみの収集をしていて、卒業後ずっと一緒のところで働いているという。体が一まわり大きくなって逞しくなっている。

「先生、あの時は悪かった。ごめんな」っていうのだ。思わず熱いものがこみあげてきて、顔がくしゃくしゃになるのを奥歯を噛みしめ堪える。Kは学校で自分のしたことを分かっていたんだ。当時、家も面白くなく、学校に行けば、するな、やめろと注意ばかりされる。何もかも面白くない中で荒れた行動になっていたのだ。 

卒業させるべきか、迷い悩んだがその言葉で、「オレの勝ちや。教師の勝ちや」と心で叫ぶ。そんなことは誰にも言えない、自分だけの宝物だ。「アンニョン ハセヨやったかな。覚えているで」と少しはにかむ。そしてまだ韓国籍のままだと言う。

後ろ姿を見送った時、卒業させて本当に良かったとしみじみ思った。そういう出会いが必ずある。だから騙されても教師という仕事を続けてこられたのだと思った。

「朝鮮語」はただ授業さえすればよいという単純なものではないと思っている。「韓流」の追い風や「嫌韓」の逆風という「風」を日々感じながら授業を行ってきた。高校における「朝鮮語」教育の量も質も変わってきた。初めのころの「なぜ朝鮮語をせねばならないか」という生徒の反発は当時とは比べようもなく少なくなった。「韓流」の影響のなか、「朝鮮語」を学びたいと湊川高校に入学してくる生徒もいる。

湊川高校は今や、被差別側の生徒たちを中心とした教育実践を推し進めてきた先生方は退職しているが、その教育伝統は今も息づいていると信じている。

学習指導要領にもない科目が、ましてや当時、忌み嫌われ学ぶ価値のない「差別される言葉」が奇跡的に公立高校に開講され、逆風や無理解のなか孤立するときもあったが、半世紀近くなる今も必修科目として営まれ続けている。引き続き湊川高校の朝鮮語とマイノリティーを大切にする教育実践を見守っていければと思っている。 

2021-2030