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Korea and Imperial Japan(2)

Korea and Imperial Japan よりつづく

韓國統監府日本が韓国を支配するために設置した統治機構。1905年11月17日、第二次日韓協約を結び韓国の外交権を剥奪し、統監及び理事官を置いた。11月21日、統監府を京城に設置し、統監には伊藤博文が就任した。統監は天皇に直隷し、韓国において日本政府の代表となり、また韓国の外交に関する事項を統轄した。さらに、必要に応じて韓国守備軍への指揮権が統監に付与された。統監府が設置されるまでに日本は韓国に対して、防衛・外交・財政・交通・通信・拓殖の諸分野への影響力を有していた。統監府には総務部・外務部・農商工部・警務部が置かれた。所属官署として通信官署(通信管理局・郵便局・郵便所)・鉄道管理局・法務院・裁判所を管轄していた。1907年7月には第三次日韓協約が締結され、同10月には官制改正がおこなわれる。その後も韓国の主権は縮小され、韓国併合直後の1910年10月1日に統監府は朝鮮総督府に改変された。
理事庁韓国統監府の職務を分掌するため各地に置かれた機構。1905年11月27日、第二次日韓協約が締結されると第三条に基づいて、韓国の各開港場と日本国政府の必要と認める地に理事庁が置かれた。理事官(奏任官)は統監の指揮監督を承け、これまで領事館が担ってきた業務を引き継いだ。さらに安寧秩序を保持するために緊急の必要があると認める場合、当該地方駐在帝国軍隊の司令官に出兵を請うことができ、また韓国の施政事務であって条約に基づく義務の履行のために必要があれば、韓国当該地方官憲に執行させることができた。理事庁は釜山・馬山・群山・木浦・京城・仁川・平壌・鎮南浦・元山・城津・大邸・新義州・清津に設置された。1907年9月の官制改正で理事庁の警察官は廃止され、看守を置くことになった。1910年7月、理事庁の警察事務は警務総監部または各警務部に移管、同年10月に朝鮮総督府が成立すると理事庁は廃止され、船舶および船員に関する事務は税関に、戸籍に関する事務は警察署に移管され、その他の業務は道および府に引き継がれた。
朝鮮総督府1910年8月韓国併合に伴い、日本が朝鮮を統治するために設置した機関。韓国統監府を前身とし、韓国政府の諸機関を統合・改変後、1910年9月に公布された「朝鮮総督府官制」に基づいて京城に設置された。総督府には総督と補佐役の政務総監の下に、総督官房および総務・内務・度支・農商工・司法の5部が設置され、所属官署として警察・裁判所を含む各諸機関が置かれた。その後、数次の官制改革が行われたなかでも、1919年8月と1943年12月に行われた改正は大規模であった。1919年、三・一独立運動の結果、武断政治の限界が明らかとなり、文化政治へ転換。総督の任用範囲を文官にまで拡げ、陸海軍統率権を撤廃したが、文官が総督に就くことはなかった。また総督府の機構も改編し、所属官署の警務総監部・各道警察部を廃止。憲法警察制度を廃止したが、警察署・派出所の数は増加した。1943年の改革では、内務大臣が総督に対して「統理上必要ナル支持」を行うことができるよう、軍需省の新設など中央政府の改変にあわせて改められた。官制改正毎に機構体制が変わっても、総督府支配の軍事的な背景のもとで統治をおこなう性格は変わらなかった。
年表アジ歴グロッサリー: 公文書に見る明治日本のアジア関与 内政・外政・工業 航路・電信・燈台
アジ歴グロッサリー: 公文書に見る「外地」と「内地」より転載(写真・文とも)

Kabwan and her contemporary

Min Kabwan and her niece, Shanghai(1)
カブァンと姪ビョンスン(上海時代) 민갑완과 질녀 병순, 상해시대

…僕は何かに追い立てられるように민갑완ミンカブァンの写真や資料を集め…

[02] 민갑완 묘비, 부산 용호동 천주교공동묘지
カブァンの墓碑(プサンのカトリック共同墓地にあった) 민갑완 묘비, 부산 용호동 천주교공동묘지
西紀一八九七年九月二五日駐英公使閔泳敦氏의三女로서울笠洞서誕生
一九〇七, 二, 一, 英親王妃三揀擇日帝侵略으로九一八, 一, 三, 高宗皇帝가下賜한信物強奪破婚害로上海亡命, 一九四五年祖國光復과함께帰
一九六二年手記「百年恨」發表, 翌年映畫化
忠臣不事二君烈女不更二夫의굳은理念下에生을童貞으로一九六八年二月一九日聖芬道院에서善終하시다
이生에서못피우신青春天國에서永樂하소서
  西紀一九六八年二月二十三日
(↑写真下に隠れた五字[太字]を読者の指摘により復元した)

[06] 민영환
叔父ミン・ヨンファン(閔泳煥) 민영환
[08] 3.1운동, 덕수궁 대한문 경성일보사 앞, 1919년
1919年の3・1運動(徳寿宮大漢門、京城日報社前) 3.1운동, 덕수궁 대한문 경성일보사 앞, 1919년
徳寿宮中和門から見た中和殿と石造殿:1910-11年
徳寿宮中和門と中和殿(1910-11年) 덕수궁 중화문 및 중화전, 1910-11년
徳寿宮の中和殿(2)
徳寿宮中和殿(現在) 덕수궁 중화전, 현재 모습
[14] 서울시 청계천 수표교, 1902년
ソウル市清渓川の水標橋(1902年) 서울시 청계천 수표교, 1902년
現在の水標橋
ソウル市清渓川の水標橋(現在) 서울시 청계천 수표교, 현재 모습
[17] 일본 황태자 방한 기념 사진, 1907년
嘉仁親王[後の大正天皇]の訪韓記念写真(1907年) 일본 황태자 방한 기념 사진, 1907년
京仁線開通時の仁川駅:1899年
京仁線開通時の仁川駅(1899年) 경인(京仁)선 개통시의 인천역, 1899년
仁川港:1925年ごろ
仁川港(1925年前後) 인천항, 1925년 전후
[25] 김규식
キム・ギュシク(金奎植) 김규식
Miss Hannah Fair Sallee, Principal:晏摩女中の年刊(1940年)より
晏摩氏女中サリー校長(1915-25年)、Ms. H. F. Sallee 암마시스쿨 교장(1915-25년) Ms. H. F. Sallee
Eliza Yates Girls' School, 1925
晏摩氏女中の校舎 암마시스쿨 교사
Shanghai Jiao Tong University, 2007
上海交通大学構内にある建物(晏摩氏女中の場所) 암마시스쿨이 있었던 곳, 현재 상해교통대학교 구내에 있는 건물
大韓民国臨時政府の旧跡
大韓民国臨時政府の旧跡 대한민국 임시정 옛터
大韓民国臨時政府の旧跡内にある金九像と執務室
大韓民国臨時政府キム・グ(金九)執務室 대한민국 임시정부, 김구 집무실
[42] 6.25 직후 남산에서 본 서울역 부근 모습, 1950년
1950年6月25日、朝鮮戦争勃発直後のソウル駅 6.25 직후 남산에서 본 서울역 부근 모습, 1950년
[43] 부산항과 부산역 1950년
プサン港・プサン駅(1950年) 부산항과 부산역 1950년
[46] 수복직후의 서울역과 주변 모습, 1950년 9울 28일
1950年9月28日、修復直後のソウル駅 수복직후의 서울역과 주변 모습, 1950년 9월 28일
[49] 민갑완 종언(終焉)의 지 장전(長箭)동, 1956년 사진
カブァン終焉の地プサン市金井区長箭洞(1956年) 민갑완 종언(終焉)지 장전(長箭)동, 1956년 사진
[50] 부산, 성분도병원 빌딩
カブァンが逝去したプサン市聖芬道病院 부산, 성분도병원 빌딩
閔甲完の骨壺(左上)と閔千植夫妻の骨壺(右上)
プサン市機張郡シロアム公園墓苑納骨堂 실로암공원묘원 납궐당
Min Kabwan and her brother's family, Shanghai(2)
弟のチョンシク(閔千植)家族とカブァン(上海時代) 민천식 가족과 민갑완, 상해시대

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암마시스쿨 In search of old Shanghai

15年前、僕は何かに追い立てられるように민갑완ミンカブァン(閔甲完 1897-1968)に関わる写真や資料を集めていた。上海語の個人授業も受けた。羽田から上海虹橋ホンチャオ空港に飛んだのは2007年4月20日だった。同年12月と09年8月にも上海を訪ねている。カブァンの上海亡命中の暮らしについて確認したいことがいくつかあったからだ。木之内誠編著『上海歴史ガイドブック』(大修館書店 1999年)を片手に上海市内を徘徊はいかいした。

1920年7月に仁川インチョンを出港したカブァンと弟は上海に到着してから約3ヵ月を東亜トンヤー飯店というホテルで過ごした。そのホテルは現在も南京路ナンチンルーに面して建ち、往年の姿を留めている。そこに韓国臨時政府の김규식キムギュシク(金奎植 1881-1950)が訪ねて来る。同年10月、彼の采配さいはいでカブァンと弟は암마시스쿨アムマシスクールに入学するのだが、彼らが長期滞在したホテルかどんなところだったのか、アムマシスクールというのがどこにあってどんな学校だったのか、よくわからなかった。

翻訳原稿を読み返しても何らの風景も浮かんでこない。このばくとした曖昧あいまいさが僕を苛立いらだたせあせらせていた。上海の当時の地図と「歴史ガイドブック」を頼りにほとんど無計画のまま上海に行き、少しずつ画像化していったのだ。このとき、翻訳編集は新たな段階に入っていたと思う。単なる字面じづらの翻訳では納得できなかったのだ。彼女をほかにも大勢いたであろう日韓史の犠牲者の一人として伝えても無意味だと思うようになった。

カブァンという女性について、韓国でも日本でもほとんどの人は知らないし、たとい知ったとしても関心を示さない。たまたま関心を抱き、自伝の翻訳を通して多くを知り得た者として、それを一人でも多くの人に伝えたいのだが、いまだにその方法を考えあぐねている。

以下、カブァン自伝より上海に亡命した直後のようすを伝える部分(仮訳)を紹介する。くり返し読みセリー校長の顔写真を見ていると、この人はこんな眼でじっとカブァンと弟を見つめたのだろうと思う。慈愛じあいに満ちた表情で彼らをあたたかく見守ってくれたに違いない、などと思う。

金奎植キムギュシク博士の言葉は、泣きながら過ごしてきた私に警鐘けいしょうを鳴らしてくれました。博士にお会いした3日後、私とチョネンは博士の紹介で学校に行きました。晏摩氏アンマシスクール[1]というアメリカ人女性セリー校長[2]が経営する大きな学校で初中等教育課程を持っていました。ピアノが12台もある音楽室があり、大きな図書館もありました。
キム博士が「韓国の愛国烈士れっしの子女」が亡命してきたと伝えていました。校長は私たちを丁重ていちょうに迎えいれ、中国語の個人指導教師まで手配してくれました。
私は中等部に入り、チョネンは初等部に入って学ぶことになりました。ただ、しばらくはまるで案山子かかしのように、他の生徒が教室に入れば入り、出るとあとについて出る、それしかできませんでした。
中国語の個人指導はとても効果的でした。他のことはともかく、知らない国で暮らしていて言葉が通じない苦しみほどつらいことはありません。生まれ落ちたときからの聾唖者ろうあしゃでもない私があらゆることに目つきと手ぶりで応じるのですから、本当に気が滅入めいりました。
韓国にいたときも、中国行きが決まってからひそかに中国人を奥の部屋に呼んで3-4ヵ月教えてもらいましたが、使おうとしても思うように言葉が出てきません。個人指導をしていただくのも主に筆談ひつだんでした。文字に書いて音を習ったのです。
いつしか冬も過ぎ、春が来ました。私の上海もかなり上達し、簡単な言葉なら話すことができるようになりました。時間があるときは中国の怪談の本を読んだり、お手伝いさんと話したりしました。
叔父がバス会社のマネージャーだったので、3ヵ月のホテル生活を切り上げ家を借りて暮らすことができました。フランス租界の保裕里ポユリにある質素な家で、二人の叔父と叔母にチョネンと私の5人で暮らしました。言葉がよく通じないからとお手伝いさんを置いたのですが、今ではかなり言葉も通じるようになりました。
ある日、人をかいして韓国から便りが届きました。上海に到着してからも、ときどき手紙だけはやり取りしていたのです。これまでは私たちに心配をかけまいと、安否あんぴを尋ねる簡単なものでした。ところが、今回の手紙で家がたいへんな状態にあることを知らされました。
私たちが上海に渡って3ヵ月過ぎてから刑事たちが次々と家に訪ねてきたそうです。「娘をどこに隠したんだ」「早く手紙を出して呼び戻せ」などと叫び、ありとあらゆる狡猾こうかつ脅迫きょうはくをしたといいます。さらに、母方ははかたの祖父と母を交替で投獄して苦しめたというのです。母は私のことで、祖父は叔父たちのことで、このような目にったのでした。
[1] Eliza Yates School、1940年(中華民國曆29年)発行、許晩成編「上海學校調査錄」(Directory of Schools and Institutions in Shanghai)には「晏摩氏女中、外灘7號大廈4樓、應美瑛校長、敎會立」「卽前省立松江中學(松江高級中學、靜安寺路591弄141號)」とある
[2] Miss Hannah Fair Sallee [写真] 1915-25年校長

방정웅小説集「白いムクゲ」出版

방 정웅パン ジョンウンさんがこれまでに書きためた小説を集め『白い木槿むくげ』と題して出版しました。版元は図書出版「新幹社」です。「おめでとうございます」、旧正月の喜びが伝わってくるようです。在日総合誌「抗路(八号)」(抗路舎2021年3月)に掲載された「湊川高校・朝鮮語教師の物語」へのリンクも張りました。

『白い木槿むくげ』あとがきより
在日コリアンとして日本に生まれ、生きていく中で気がつくと「くすぶった思い」を持ち続けている自分がいました。しかし日々の生活に追われ、いつもの日常が過ぎていきます。くすぶった思いの昇華しょうかの手段として「小説」に向かったのは、小説世界に入ることで救われた思いが幾度いくどかあったからです。
高校教員生活を終え、意を決して「大阪文学学校」の扉を恐るおそるけました。今まで生きてきた在日コリアンとしての思いを、素朴そぼく庶民しょみんの視点から喜び悲しみを淡々たんたんと描きたい、そんな希望を持って入っていった「文学の森」の道はけわしく、進むことも戻ることもできない時期が何度かありました。同じ思いを持った仲間に救われ、今に至っています。
このかん書きつづった中短編の中から四編を選びました。幸いなことに「文学賞」と名のつくささやかなご褒美ほうびも何度かいただき、それが砂漠で水を与えられたように歩み続ける励みともなりました。
「くすぶり」はそう簡単には消えそうもありません。それがある限り「このまま死ねるか」と、自分の胸だけにそっと仕舞しまい、これからも精進しょうじんしていきたいと思っています。
author profile
name방정웅 方政雄(パン・ジョンウン)
birth1951 年神戸生まれ
identity在日韓国人二世
job元兵庫県立湊川高等学校教員
author『ボクらの叛乱』(兵庫県在日外国人教育研究協議会) 
co-author『教育が甦る―生きること学ぶこと』(国土社)
『阪神大震災 2000 日の記録』(神戸新聞総合出版センター)
『多文化・多民族共生教育の原点』(明石書店)
『韓国語・朝鮮語教育を拓こう』(白帝社) ほか
activities伊丹市民祭り、出会いのひろば「伊丹マダン」代表。地域の多文化共生を深める活動を続けている。

電車という名の動く寺院 mobile temples (a short story)

この短編を「縦書き文庫」でお読みください. Click!
関連作: 老人たちよ異界でタンゴを舞うな

鉄道会社の駅務員だった主人公はその仕事を天職と信じ、他の誰よりも献身的に駅務に尽くしました。おそらくその献身ぶりがたたったのでしょう。半年あまり過ぎたころから精神に変調をきたし、一年ほどでめてしまいます。以下の文章は、そのあいだに彼が観察した電車と駅構内などにおける人々の生態について彼が担当医と記録係に話した内容をもとにしています。

駅のホーム

大きくカーブした線路に沿ってホームが弧状こじょうに延びている。ホームの上には、白い塗料をぬりたくった鉄柱が規則正しく並び、半透明なアーチ状の屋根を支えている。何本かおきに柱の上方に取りつけられたスピーカーが、朝暗いうちから深夜まで、一定の間隔をおいて電子音のチャイムと駅員のヒステリックな声を吐き出し続ける、いかにも都会的で無機質むきしつな風景だ。

電車の最前部の車輌が、みるみる大きくなって駅に近づいてくる。

ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)
電車が入ってまいります(録音された声が流れる)
足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声が流れる)

朝のラッシュ時間、ひっきりなしにホームに入ってくる電車が威厳いげんを示すように警笛けいてきを鳴らすたびに、駅員たちがあわただしく動き回り、苛立いらだたしげに決められた台詞せりふを叫ぶ。それにあおられるかのように、ホームを行き来する人々の動きがあわただしさを増す。

電車が入ってまいります(録音された声)
ピピーピッピー(駅員がホイッスルを吹く)
足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声)
ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)

駆けこみ乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)

ダンダラダーダンダラダーダンダラダラダー(発車の電子音が響く)
ドアが閉まります、無理なご乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)
次の電車がまいります(電光掲示板の文字が表示される)
次の電車をご利用ください(駅員が叫ぶ)

電車が発車します、おさがりください(駅員が叫ぶ)
ピピーピッピー(ホイッスルが鳴る)

この物語の主人公である凭也ヒョーヤは、朝のホームが好きだった。毎朝夕こんな光景を見ていた。そのまっただなかで、改札口を通り過ぎていく相手の定まらない人々に向かって、数秒ごとにあいさつをくり返すのが彼の仕事だった。仕事の一部としてそうするのだが、彼にあいさつを返す人はいない。改札係など機械じかけの人形ぐらいにしか考えていない人々は、うつむき加減かげんに急ぎ足で彼のよこを通り過ぎるだけだ。彼が発するあいさつのことばは人々の靴音くつおとのなかにむなしく消えていく。

ドドッドドッドドードドッドドッドドー(人々の靴音が響く)
おはようございます、おはようございます(改札係が声を出す)
通勤お疲れさまです、お疲れさまです(改札係があいさつする)

改札係になって数ヵ月のあいだ、凭也は駅のホームとそこを通過する電車が作り出す光景が神聖な伽藍がらんのように見えた。朝夕の陽光を浴びてホームを動き回る人びとの姿は敬虔けいけんな信者のように映ったし、仕事とはいえ宗教儀礼のようにあいさつすることに何の疑いもいだかなかった。人々に対して、家畜に対したときのような優越感を抱くことはあったが、ホームも駅舎もすべて通過する人々の寄進きしんで建てられたものだったし、彼らがいなくなれば改札係もいらなくなると考えていた。まるで当然のことのように、通過していく人々をうやまっていたのである。

お勤めごくろうさまでした、ごくろうさまでした(改札係があいさつする)
本日もご利用いただき、ありがとうございました(改札係が頭をさげる)
ありがとうございました、ありがとうござ……

電子音と駅員たちの声がスピーカーから流れるたびに、ホームの光景に彼らの苛立ちと怒りが渦巻うずまいているように感じるようになったのは半年ほどたってからだった。それでも、自分をとりまく光景を不自然に感ずることはなかった。ごくあたりまえのことだと考えていた。一年以上ものあいだ、彼はほとんど休むこともなく働きつづけたのだから。それは敬虔といってよいほどであった。それがわざわいしたのかもしれない。いつのころからか、駅員たちの叫び声が罵声ばせいに聞こえるようになった。

おい、いったい何度いったらわかるんだ
ホームのはしを歩くんじゃない
ドアがしまるといってるんだ
おい、走るんじゃない
ほかの人に迷惑だからやめろといってるんだ
やめないか、おい、いい加減にしろ
おまえたちなんか家畜とおんなじだ
電車に引かれて死んでしまえ
死んでしまえばいいんだ

つづきは縦書き文庫でお読みください。→「電車という名の動く寺院」

写真: 韓国・京仁線の仁川駅(1899年) 경인(京仁)선 인천역, 1899년

1902年倫敦、漱石が跨がった自転車

以下の文章は、宮田浩介氏の「サイクリストになった漱石: 技術史の視点で読み解くロンドン『自転車日記』」(Jubne Notes 2014年3月掲載)を一部編集(見出しの一部修正と図版の選択など)を施し引用したものです。同氏はこの文章の末尾に次のように記していますが、大いに同感です。漱石がぐっと身近な人になりました。

『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。
Jubne Notes ©2006-2022 kosukemiyata.com

以下、引用します。

夏目漱石の作品に「自転車日記」というタイトルの短編がある。留学先のロンドンで自転車に乗り始めた時のことを、自虐的かつユーモラスな口調で語ったものだ。西洋近代の中心地で漱石が出遭ったのは、いったいどのような自転車だったのか。そして彼は、この文明の産物とどんな風に格闘したのだろうか。19世紀の終わり頃の資料などを頼りに、彼のサイクリング体験の実像を探ってみよう。

漱石35歳の自転車デビュー

漱石の「自転車日記」に綴られているのは、「西暦1902年秋」、今からおよそ120年前の出来事だ。彼は既に満年齢で35歳になっていた[1]が、下宿の「婆さん」から強く勧められてその「命」に従うまで、自転車に「乗って見た」ことは全く無かったらしい。

未経験者の漱石にとっては、自転車に跨るだけでも大変なことだった。「いざという間際でずどんと落る」。「ずんでん堂とこける」。監督役の「○○氏」に車体を支えてもらい、サドルに腰かけたところで前に押してもらっても、次の瞬間には「砂地に横面を抛りつけ」ている。日を経て「ともかくも人間が自転車に附着している」状態を保てるようになっても、坂道での練習で彼は制動不能に陥り、塀にぶつかった後でようやく止まるのだった。

訓練を開始してから数日、やっとサドルに座ってペダルを漕げるようになってきても、漱石はまだ思うように走れなかったようだ。 よく知っているエリアの案内を同行者に任されたのに、彼は「曲り角へくるとただ曲りやすい方へ曲ってしまう」のだ。 なんとかハンドルをこじって別の方向へ曲がってみるも、今度はその急激な動作によって、「余に尾行して来た一人のサイクリスト」の転倒を誘発してしまう(怒った相手は「チンチンチャイナマン」と彼を罵倒する)。

人間万事漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもない

「日記」の終わり近くのある日、漱石はこんなサイオー・ホースめいた格言を作って開き直ってみるが、「バタシー公園」(Battersea Park)へ行く途中で他の自転車の割り込みに遭い、「自分が落ち」て危うく馬車に轢かれそうになる。

漱石が購入した「老朽の自転車」

こうして「自転車日記」をざっと読み通してみると、漱石は運動が苦手、との印象が否めない。 運転中の判断のセンスが疑われる場面も多く、思わず「そういう時はこうするんだよ!」と教えてあげたくなる。 けれどもその助言が正しいかどうかは、もう少し詳しく調べてみなければ分からない。自分のイメージしている自転車が、そもそも間違っているかも知れないからだ。

「ラヴェンダー・ヒル」の自転車店を訪れた際、「○○氏」はまず「女乗」を薦めた、と「日記」にはある。これに対し漱石は「髯を蓄えたる男子に女の自転車で稽古をしろとは情ない」と抗議、練習車は「いとも見苦しかりける男乗」に決まった。それは「関節が弛んで油気がなくなった老朽の自転車」で、「物置の隅に閑居静養を専にした奴」という感じだった。

図3[3]: 漱石の言う「女乗」とは、スカートでも乗れるフレーム形状の自転車のことだろう

漱石が購入した「老朽の自転車」は、実際のところどんな構造のものだったのか。店の場面の「上からウンと押して見るとギーと鳴る」、「ハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり」といった描写は、前輪が極端に大きい「オーディナリー自転車」には当てはまりそうにない(図4参照)。1880年代の中頃まではこのタイプが「普通の自転車」(ordinary bicycles)だった[4]が、1895年には新型にすっかり「普通」の座を奪われ、その呼び名も限定的な形(Ordinary Bicycles)に変わっていたようだ[5]。そんな車種を1902年になってわざわざ選ぶというのも、初心者の訓練用としてはまずありえない。

図4[6]: 「オーディナリー」型の自転車のハンドルは乗車前に上から押せるような位置にはない

1880年代に進んだ「セーフティー」(Safety)自転車の開発には、乗車位置を下げて転倒の危険性を減らし、なおかつ安定した走行性能を確保するという共通課題があった[7]。これらの条件を満たして好評を得たのが、スターレー・アンド・サットン(Starley & Sutton)社の「ローバー」(Rover)だった。チェーンを介した後輪駆動、前後同等サイズのホイール(2世代目以降)といったその構成は、自転車のスタンダードとして次第に定着していった[8]。1888年にはスコットランド出身のダンロップ博士が空気を入れるタイヤの特許を取得、乗り心地が良く楽にスピードの出せるこの方式のタイヤは、7、8年のうちに殆ど全ての新車の標準装備となり、従来のソリッドタイヤを駆逐してしまった[9]

図5[10]: 空気入りタイヤとそうでないものとが混在し、新車購入時にユーザーがどちらかを選択できた時期もあった

乗り易いセーフティー型の発展が市場に及ぼした影響は大きく、イギリスでは自転車ブームが最高潮となった1895~97年にかけて、毎年およそ75万台が生産されていたと推計されている[11]。 1889年の時点では55弱だったロンドンの自転車メーカー(多くは大元の製造ではなく販売や修理のみを行っていた)の数も、1897年には390にまで膨れ上がっていた[12]。 漱石の留学はこの大流行が過ぎ去った後のことだが、彼が練習のために希望した「当り前の奴」は、こうして広まった自転車のうちの「男乗」だったろう。

図6[13]: 1898年にアメリカで出版された本の図解では、空気入りタイヤが標準的なものとして扱われている

ブレーキが無かった?

漱石が乗っていたと思われる1890年代のセーフティー型は、既に今の自転車と同じような姿をしていた。しかしながらその機械的な構造には、現代の感覚に照らすとまだ「安全」とは言い難い点があった。クランク(図6の29番)と後輪の回転が互いに直結していたため、ペダルに載せた足を走行中に止められなかったのだ。 ブレーキは前輪のタイヤに作用する手動式(図3、5、6、7参照)が最も一般的だったが、主に女性が使うものと考えられていたのか、これらを全く装着することなく、ペダルを逆に踏む「バック踏み」(back-pedaling / back-pedalling)だけで速度をコントロールするサイクリストも多かったようだ[14]

図7[15]: ブレーキのある自転車ならばフットレストに足を載せて坂を下ることができた(クランクは勝手に回り続ける)が、ブレーキが無ければクランクの回転を足で抑えて減速しなければならなかった

「自転車日記」の描写にも、漱石がブレーキを操作していたことを示す箇所はない。 「○○氏」とその友人に伴われて自転車で出かけた際、二人の間に挟まれて走っていた彼は、「クラパム・コンモン」から「鉄道馬車の通う大通り」(図2の赤線のところ)へ曲がる手前で、横から来た荷車に進路を塞がれてしまう。 ぶつかるわけにはいかないし、左右どちらかに逃げることもできない。 ギリギリになって「退却も満更でない」と思い至るものの、「逆艪の用意いまだ調わざる今日の時勢」ゆえ、彼は「仕方がない」と諦めて落車を選択する。 「逆艪」とは艪を船の前に付けて後退を可能にすることであり、この「用意」ができていないというのは、恐らく「バック踏み」に慣れていなかったことを意味している。 彼の自転車にはそもそもブレーキが無く、彼自身も「ペダル」を「踏みつける」と車輪が(?)「回転する」事実に気がついたばかりで、それを利用してスピードを落とす技術が身についていなかったのだろう。

図8[16]: ブレーキの無い自転車の場合、急坂の手前では降車するのが常識的な行動だった

漱石の自転車がブレーキを欠いていたことは、何日か前の坂道の場面からも推測できる。 彼はそこで「鞍に尻をおろさざるなり、ペダルに足をかけざるなり」、「両手は塞っている、腰は曲っている、右の足は空を蹴ている」という格好になっていたが、ブレーキがあればそれを使えば良かったのだから、「下りようとしても車の方で聞かない」状態にはならなかったはずだ。 彼のこの奇妙な「曲乗」の姿勢は、どうも本来は乗降のためのものだったらしい(図8参照)。 自転車の後輪の軸には左に「ステップ」(図6の44番)がついていて、そこに左足をかけてからサドルに跨り、また逆の手順で降りるのが普通だったようだ[17]。 「オーディナリー」型の時代から続くこうした方法を、入門者はステップに留まりバランスを取るところから学んだ[18](図9参照)。 初日に「馬乗場」で「○○氏」が放った「ペダルに足をかけようとしても駄目だよ、ただしがみついて車が一回転でもすれば上出来なんだ」との言葉は、これにぴったり合致するものだ。

図9[19]: 右足で地面を蹴って自転車を前進させ、ステップ上でバランスを保つ練習をした(これができたら次はサドルに腰かける)

どんな自転車に乗っていたかが概ね見えてくると、漱石の苦闘の様子にも納得がいく。 やっとステップに立てるようになったばかりの段階では、坂を使った特訓はあまりに無謀だった。 サドルに座りペダルを漕いで走行できるようになっても、ブレーキが無ければ急に止まることはまず不可能だったろう。 「バック踏み」だけで一気に速度を落とすための経験値[20]が、彼にはまだまだ足りていなかった。 「バタシー公園」へ向かう途中の「非常の雑沓な通り」は、だからこそ「初学者たる余にとって」「難関」だったわけだ。 「日記」に描かれたドタバタの原因の殆どは、彼自身のセンスや運動能力よりも、選んだ自転車の機械的な特性にあったのである。

サイクリストになった漱石

様々な資料から推測される漱石の自転車は、「オーディナリー」型などに比べればずっと扱い易かったものの、現代の一般的なモデルほど簡単に乗れるものではなかった。 「その苦戦」に関して当人は、「大落五度小落はその数を知らず、或時は石垣にぶつかって向脛を擦りむき、或る時は立木に突き当って生爪を剥がす」、「しかしてついに物にならざるなり」と書き記しているが、結局ダメだったというのは脚色のようだ。 鏡子夫人が後に語ったところによると、彼は「よくおっこちて手の皮をすりむいたり、坂道で乳母車に衝突して、以後気をつけろとどなられたりして、それでもどうやら上達して、人通りの少ない郊外なんぞを悠々と乗りまわして」いたらしい[21]。作中の「余」は上手くならなかったが、生身の漱石はサイクリストになっていたのだ。知人一家を訪ねた折に「いつか夏目さんといっしょに皆で」と「令嬢」から提案され、見栄を張りつつもこれを断り通そうとしたために「父君」から「サイクリストたるの資格なきものと認定」されることになったウィンブルドンへの遠乗り(彼の下宿からは約9キロメートルの行程)も、実現可能なものになっていたに違いない。

図10(Edward Penfieldによるポスター)[22]: フットレストを利用する際、長いスカートなどは回り続けるクランクとペダルに絡まる恐れがあったが、1898年頃から普及し始めた足を止められる自転車(ブレーキ装置が必須)では、この姿勢そのものが不要になった[23]

『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。

  1. 夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』(文春文庫 1994) 439, 445. 
  2. Philip, George, Philips’ Handy Volume Atlas of London, 6th ed. (London: George Philip & Son, ca. 1910)
  3. Sexby, John James, The Municipal Parks, Gardens, and Open Spaces of London: Their History and Associations (London: Elliot Stock, 1905), 17. 
  4. Albemarle, William Coutts Keppel, Earl of, and G. Lacy Hillier, Cycling (London: Longmans, Green, and Co., 1887), 129-130. 
  5. Albemarle, William Coutts Keppel, Earl of, and G. Lacy Hillier, Cycling, 5th ed. (London: Longmans, Green, and Co., 1896), ⅲ, ⅹ, 259. 
  6. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 1. 
  7. Sharp, Archibald, Bicycles & Tricycles: An Elementary Treatise on Their Design and Construction, with Examples and Tables (London: Longmans, Green, and Co., 1896), 150-153. 
  8. Sharp, 153-158. 
  9. Sharp, 159-160; Wilson, David Gordon, “A Short History of Bicycling,” Bicycling Science, 3rd ed. (Cambridge, MA: MIT Press, 2004), 25-26. 
  10. Dagg, George A. de M. Edwin, “Devia Hibernia”: the road and route guide for Ireland of the Royal Irish Constabulary (Dublin: Hodges, Figgis, & Co., 1893), 348. 
  11. Rubinstein, David, “Cycling in the 1890s,” Victorian Studies 21.1 (1977): 47-71, 48, 51. 
  12. Rubinstein, 53. 
  13. Schwalbach, Alexander and Julius Wilcox, The Modern Bicycle and Its Accessories (New York: The Commercial Advertiser Association, 1898), ⅹⅴⅰ. 
  14. Schwalbach and Wilcox, 104-108; Garratt, Herbert Alfred, The Modern Safety Bicycle (London: Whittaker & Co., 1899), 182-192. 
  15. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 120. 
  16. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 239. 
  17. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 115, 118-119. 
  18. Albemarle and Hiller, Cycling, 63, 133, 135-137. 
  19. Porter, Luther H., Cycling for Health and Pleasure: An Indispensable Guide to the Successful Use of the Wheel (New York: Dodd, Mead & Co., 1895), 30. 
  20. Porter, 43, 119. 
  21. 夏目・松岡 116-117. 
  22. この姿勢をとることができる自転車にはフットレストとブレーキが装備されているはずだが、イラストでは省略されたようだ。 
  23. “Cycle Shows in England,” The West Australian, December 31, 1898: 2. 

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絵画とデッサンで描くタンゴの世界

パリ在住の日本人画家でタンゴ・ミロンゲロ(一般的に知られているショータンゴとは異なるブエノスアイレス生まれの伝統的な<タンゴ> tango milonguero)の普及に努める女性がいます。僕も大いに感化され<タンゴ>に魅せられた者の一人です。

<タンゴ>の何に魅了されたのでしょう。おそらく最大の理由は僕に<タンゴ>を教えてくれる人が<ダンサー>ではないことです。同世代ということもあるかもしれません。半世紀ほど異国で過ごし、画家を本業としながら、さまざまなダンスを習った末に<タンゴ>に出会って魅了された、そういう来歴らいれきに引かれたのです。

そんな彼女をとりこにした<タンゴ>に僕も魅了された。まだうまくリードできないのに不遜ふそんながら、そう考えています。彼女が絵画とデッサンで描く<タンゴ>の世界に引かれたということです。70歳にしてこういう世界を知った者は仕合しあわせというべきでしょう。

…日本人も勿論もちろんアジア系なのですが、中国人や韓国人と違って、独特の内向性ないしストイック(抑制的)な面を備えています。タンゴの持つ情熱的な要素とこの抑制的な要素がぶつかると、そこに葛藤かっとうを生じます。とくに、ミロンゲロではペア同士が体を接することもあり、異性をハグ(抱擁ほうよう)することにれていない多くの日本人はその違和感をだっしないまま、タンゴから遠ざかってしまうようです。
長年パリに住みながら、過去10年ほどのあいだ何度か日本に短期滞在し、タンゴに魅せられた人々を観察してきた私は、日本美の根底に抑制された美意識を見ます。情熱を抑制しながら表現できるようになると、単なる情熱の表出とは違う一種の気品や格調の高さが生まれます。それが日本的なタンゴだといえるかもしれません。
日本人はそういう抑制された感情表現が得意だと思うからです。ただ、その抑制力が否定的に作用すると内向きになり、単なる内気になってしまいます。それを克服こくふくして情熱を表現できたら本当にすばらしい。タンゴと日本的な美意識を融合する—そんなことをめざす人が増えたら、とひそかに期待しています…
パリから見た日本のタンゴ tango milonguero より
(c) wakakoyamamoto

「ハングルの誕生」平凡社ライブラリーに

10年余り前に出版された『ハングルの誕生』(野間秀樹著、平凡社新書版)が平凡社ライブラリーから『新版ハングルの誕生』として出版された。副題も新書版の「(おん)から文字を創る」から「人間にとって文字とは何か」に変わった。

10年を経てライブラリーに入る、すごいことだと素直に思う。以前、僕の処女作を読んでいただき、ほめてくださったが、こちらは一向に読者が増えない。著者がほめるということは、僕の文章は難解なのか、と考えていた。

そういえば、新書版の原稿を読ませてもらったときも、「難しい」などと勝手なことを言ってしまった。何年もお会いしていないが、再会したら「還暦を過ぎて文章がやさしくなりましたね」と言うつもりだ。

ライブラリー版と新書版を比較すると、「あとがき」がずいぶん異なる。故人名が連ねられていて年齢を感じさせるからかもしれない。新書版にない序文は、以前より文章が読みやすい。ライブラリー版は改稿した部分も多いという。もう一度読み直してみようと思う。

頭脳流出と同調圧力

真鍋叔郎博士(1931-)がノーベル物理学賞を受賞するや、日本のメディアはこぞって日本人のノーベル賞受賞として大きな見出しで扱った。そして、日本人の「頭脳流出」問題を指摘する。

だが、待てよ、「頭脳流出」って何だろう。日本人の優秀な研究者等が日本から海外に出ていくのをいうが、なぜそれを嘆かなくてはいけないのだろう。世界に出て行ったのだから、その分野における世界貢献だと考えられないのだろうか。

真鍋博士の場合は米国籍を取得している。その理由の一つとして「社会に同調する能力が欠けている」と言ったそうだ。彼の修論に注目した米国の研究者たちがすごいと思うが、彼らはもしかしたら日本の研究環境の窮屈さや不自由さをよく理解しているのかもしれない。

まったく関係ないように思われるだろうが、雅子皇后の適応障害や眞子内親王のPTSDも同調圧力によるところが大きいのではないか。日本のなかでも皇室はとくにその圧力が大きいと想像するからである。

2021-2030

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