「立正安国論」を読み直す

畏れ多くも「立正安国論」を読み直すため、SOKAnet 日蓮大聖人御書全集全文検索より読み下し文をダウンロードし、戸田城聖著『日蓮大聖人御書十大部講義第1巻「立正安国論」』(創価学会1952年)をもとにルビを付しました。佐藤弘夫著『日蓮「立正安国論」』(講談社学術文庫2008年)を参照しました(引用は[佐藤 p.xx]と表示)。

立正安国論 文応元(1260)年七月 39歳御作 与北条時頼書 於鎌倉
第一段
 旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭てんぺんちよう飢饉疫癘えきれいあまねく天下に満ち広く地上にはびこる牛馬ちまたたお骸骨がいこつみちてり死を招くのともがら既に大半に超え悲まざるのやからあえて一人も無し、然る間或は利剣即是りけんそくぜの文をもっぱらにして西土教主の名を唱え或は衆病悉除しゅうびょうしつじょの願を持ちて東方如来の経をし、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは秘密真言の教に因て五びょうの水をそそぎ有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄し、若くは七鬼神のを書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け若くは天神地を拝して四角四かいの祭を企て若くは万民百姓を哀れんで国主国宰の徳政を行う、然りと雖も唯肝胆かんたんくだくのみにしていよいよ飢疫きえきめられ乞客こっきゃく目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍をものみと為し並べるかばねを橋と作す、観れば夫れ二離璧じりへきを合せ五緯珠いたまを連ぬ三宝も世にいまし百王未だ窮まらざるに此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍に依り是れ何なる誤に由るや。
 主人の曰く独り此の事を愁いて胸臆くおう憤悱ふんびす客来つて共に嘆くしばしば談話を致さん、夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり而るに今神術も協わず仏威も験しなし、つぶさに当世の体を覿るに愚にして後生の疑を発す、然れば則ち円覆えんぶを仰いで恨を呑み方載ほうさいに俯して慮を深くす、つらつら微管を傾けいささか経文をひらきたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。
第二段
 客の曰く天下の災・国中の難・余独り嘆くのみに非ず衆皆悲む、今蘭室らんしつに入つて初めて芳詞ほうしを承るに神聖去り辞し災難並び起るとは何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん。
 主人の曰く其の文繁多はんたにして其の証弘博ぐばくなり。
 金光明経に云く「其の国土に於て此の経有りと雖も未だかつて流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事をねがわず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属けんぞく無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣あくしゅを増長し人天を損減し生死の河にちて涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉やしゃ等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護おうごの心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし、一切の人衆皆善心無く唯繫縛けいばく殺害瞋諍しんじょうのみ有つて互に相讒諂ざんてんげてつみ無きに及ばん、疫病流行し彗星しばしば出で両日並び現じ薄蝕つね無く黒白の二虹不祥の相を表わし星流れ地動き井の内に声を発し暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実みょうじつみのらず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」已上。
 大集経に云く「仏法実に隠没せば鬚髪爪しゅほっそう皆長く諸法も亦忘失せん、の時虚空の中に大なる声あつて地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん・城壁破れ落ち下り屋宇悉くやぶけ樹林の根・枝・葉・華葉・菓・薬尽きん唯浄居天を除いて欲界の一切処の七味・三精気損減して余り有ること無けん、解脱げだつの諸の善論の時一切尽きん、所生の華菓けかの味い希少にして亦うまからず、諸有の井泉池・一切尽く枯涸し土地悉く鹹鹵かんろ剖裂てきれつして丘澗きゅうかんと成らん、諸山皆燋燃しょうねんして天竜雨を降さず苗稼みょうけも皆枯死し生ずる者皆死し尽き余草更に生ぜず、土を雨らし皆昏闇こんあんに日月も明を現ぜず四方皆亢旱こうかんしてしばしば諸悪瑞を現じ、十不善業の道・貪瞋癡とんじんち倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿しょうろくの如くならん、衆生及び寿命・色力・威楽減じ人天の楽を遠離し皆悉く悪道に堕せん、是くの如き不善業の悪王・悪比丘我が正法を毀壊きえし天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍ひみんする者此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん」已上。
 仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る賊来つて国をおびやかし百姓亡喪もうそうし臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん、天地怪異けいし二十八宿・星道・日月時を失い度を失い多く賊起ること有らん」と、亦云く「我今五眼をもつて明に三世を見るに一切の国王は皆過去の世に五百の仏につかえるに由つて帝王主と為ることを得たり、是をつて一切の聖人羅漢而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん、若し王の福尽きん時は一切の聖人皆為に捨て去らん、若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」已上。
 薬師経に云く「若し刹帝利せつていり灌頂王かんちょうおう等の災難起らん時所謂いわゆる人衆疾疫の難・他国侵逼しんぴつの難・自界叛逆ほんぎゃくの難・星宿変怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不雨の難あらん」已上。
 仁王経に云く「大王吾が今化する所の百億の須弥しゅみ・百億の日月・一一の須弥に四天下有り、其の南閻浮提なんえんぶだいに十六の大国・五百の中国・十千の小国有り其の国土の中に七つの畏る可き難有り一切の国王是を難と為すが故に、云何いかなるを難と為す日月度を失い・時節返逆ほんぎゃくし・或は赤日出で・黒日出で・二三四五の日出で・或は日蝕して光無く・或は日輪一重・二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり、二十八宿度を失い金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・ちょう星・南じゅ・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星・是くの如き諸星各各変現するを二の難と為すなり、大火国を焼き万姓焼尽せん或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん是くの如く変怪するを三の難と為すなり、大水百姓を漂没ひょうもつし・時節返逆して・冬雨ふり・夏雪ふり・冬時に雷電霹礰へきれきし・六月に氷霜はくを雨らし・赤水・黒水・青水を雨らし土山石山を雨らし沙礫石を雨らす江河逆に流れ山を浮べ石を流す是くの如く変ずる時を四の難と為すなり、大風・万姓を吹殺し国土・山河・樹木・一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん是くの如く変ずるを五の難と為すなり、天地・国土・亢陽し炎火洞燃どうねんとして・百草亢旱こうかんし・五穀みのらず・土地赫燃かくねんと万姓滅尽せん是くの如く変ずる時を六の難と為すなり、四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵劫起らん・是くの如く怪する時を七の難と為すなり」
 大集経に云く「若し国王有つて無量世に於て施戒慧を修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば是くの如くゆる所の無量の善根悉く皆滅失して其の国まさに三の不祥の事有るべし、一には穀貴・二には兵革・三には疫病なり、一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも人随従せず常に隣国の侵にょうする所と為らん、暴火よこしまに起り悪風雨多く暴水増長して人民を吹ただよわし内外の親戚其れ共に謀叛せん、其の王久しからずして当に重病に遇い寿終じゅじゅうの後・大地獄の中に生ずべし、乃至王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復た是くの如くならん」已上。
 夫れ四経の文あきらかなり万人誰か疑わん、而るに盲瞽もうこともがら迷惑の人みだりに邪説を信じて正教をわきまえず、故に天下世上・諸仏・衆経に於て捨離の心を生じて擁護の志無し、仍て善神聖人国を捨て所を去る、是を以て悪鬼外道災を成し難を致す。
第三段
 客色を作して曰く後漢の明帝は金人きんじんの夢を悟つて白馬の教を得、上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構を成す、しかしよりこのかた上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専にす、然れば則ち叡山・南都・園城・東寺・四海・一州・五畿・七道・仏経は星の如くつらなり堂宇どうう雲の如くけり、鶖子しゅうしやからは則ち鷲頭じゅとうの月を観じ鶴勒かくろくたぐいは亦鶏足けいそくの風を伝う、誰か一代の教をさみし三宝の跡を廃すといわんや若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。
 主人さとして曰く仏閣いらかを連ね経蔵軒を並べ僧は竹葦ちくいの如く侶は稲麻とうまに似たり崇重年り尊貴日に新たなり、但し法師は諂曲てんごくにして人倫を迷惑し王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し。
 仁王にんのう経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、其の王わきまえずして此の語を信聴しよこしまに法制を作つて仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」已上。
 涅槃ねはん経に云く「菩薩悪象あくぞう等に於ては心に恐怖くふすること無かれ悪知識に於ては怖畏ふいの心を生ぜよ・悪象の為に殺されては三しゅに至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上。
 法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲てんごくに未だ得ざるをれ得たりとおもい我慢の心充満せん、或は阿練若あれんにゃ納衣のうえにして空閑に在り自ら真の道を行ずとおもいて人間を軽賤する者有らん、利養に貪著するが故に白衣のめに法を説いて世に恭敬くぎょうせらるること六通の羅漢らかんの如くならん、乃至常に大衆の中に在つて我等をそしらんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門ばらもん居士こじ及び余の比丘衆に向つて誹謗ひぼうして我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くとわん、濁劫じょっこう悪世の中には多く諸の恐怖くふ有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈めり毀辱きにくせん、濁世の悪比丘は仏の方便・随宜ずいぎ所説の法を知らず悪口して顰蹙ひんじゅく数数しばしば擯出ひんずいせられん」已上。
 涅槃経に云く「我れ涅槃の後・無量百歳・四道の聖人悉くた涅槃せん、正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし、持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜とんしして其の身を長養し袈裟けさを著すと雖もなお猟師の細めに視てしずかに行くが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貪嫉とんしつを懐く啞法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門のかたちを現じ邪見熾盛しじょうにして正法を誹謗せん」已上。
 文について世を見るに誠に以てしかなり悪侶をいましめずんばあに善事を成さんや。
第四段
 客猶憤りて曰く、明王は天地に因つて化を成し聖人は理非を察して世を治む、世上の僧侶は天下の帰する所なり、悪侶に於ては明王信ず可からず聖人に非ずんば賢哲仰ぐ可からず、今賢聖の尊重せるを以て則ち竜象の軽からざるを知んぬ、何ぞ妄言もうげんいてあながちちに誹謗を成し誰人を以て悪比丘とうや委細に聞かんと欲す。
 主人の曰く、後鳥羽院の御宇ぎょうに法然と云うもの有り選択集せんちゃくしゅうを作る則ち一代の聖教を破しあまねく十方の衆生を迷わす、其の選択に云く道綽禅師どうしゃくぜんし・聖道浄土の二門を立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文、初に聖道門とは之に就いて二有り乃至之に準じ之を思うにまさに密大および実大をも存すべし、然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳けごん・三論・法相・地論・摂論じょうろん・此等の八家の意正しく此に在るなり、曇鸞どんらん法師往生おうじょう論の注に云く謹んで竜樹りゅうじゅ菩薩の十住毘婆沙びばしゃを案ずるに云く菩薩・阿毘跋致あびばっちを求むるに二種の道有り一には難行道二には易行道なり、此の中難行道とは即ち是れ聖道門なり易行道とは即ち是れ浄土門なり、浄土宗の学者先ずすべからく此の旨を知るべしたとい先より聖道門を学ぶ人なりと雖も若し浄土門に於て其の志有らん者はすべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし又云く善導和尚・正雑の二行を立て雑行ぞうぎょうを捨てて正行に帰するの文、第一に読誦どくじゅ雑行とは上の観経かんぎょう等の往生浄土の経を除いて已外いげ・大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く、第三に礼拝らいはい雑行とは上の弥陀みだを礼拝するを除いて已外一切の諸仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬くぎょうするを悉く礼拝雑行と名く、私に云く此の文を見るにすべからく雑を捨ててせんを修すべし豈百即百生の専修正行を捨てて堅く千中無一の雑修ぞうしゅ雑行ぞうぎょうしゅうせんや行者く之を思量せよ、又云く貞元じょうげん入蔵録にゅうぞうろくの中に始め大般若はんにゃ経六百巻より法常住経に終るまで顕密の大乗経総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり、皆須く読誦大乗の一句に摂すべし、まさに知るべし随他ずいたの前にはしばら定散じょうさんの門を開くと雖も随自ずいじの後にはかえつて定散の門を閉ず、一たび開いて以後永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なりと、又云く念仏の行者必ず三しん具足ぐそくす可きの文、観無量寿かんむりょうじゅ経に云く同経の疏に云く問うて曰く若し解行げぎょうの不同・邪雑じゃぞうの人等有つて外邪異見げじゃいけんの難を防がん或は行くこと一分二分にして群賊ぐんぞく喚廻よびかえすとは即ち別解・別行・悪見の人等にたとう、私に云く又此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と言うは是れ聖道門しょうどうもんを指す已上、又最後結句の文に云く「夫れすみやかに生死しょうじを離れんと欲せば二種の勝法しょうほうの中にしばらく聖道門をきて選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲せば正雑しょうぞう二行の中にしばらく諸の雑行をなげうちて選んでまさに正行に帰すべし」已上。
 之にいて之を見るに曇鸞どんらん道綽どうしゃく善導ぜんどう謬釈びゅうしゃくを引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言そうじて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及びもろもろ世天せてん等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或はき或はなげうつ此の四字を以て多く一切を迷わし、あまつさえ三国の聖僧十方の仏弟ぶっていを以て皆群賊と号し併せて罵詈めりせしむ、近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗ひぼう正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う者なり。
 是に於て代末代に及び人・聖人に非ず各冥衢みょうくつて並びに直道じきどうを忘る悲いかな瞳矇どうもうたずいたましいかないたずらに邪信を催す、故に上国王より下土民に至るまで皆経は浄土三部の外の経無く仏は弥陀みだ三尊のほかの仏無しとおもえり。
 つて伝教・義真・慈覚じかく智証ちしょう等或は万里の波濤はとうわたつて渡せし所の聖教或は一朝の山川を廻りてあがむる所の仏像若しくは高山のいただき華界けかいを建てて以て安置し若しくは深谷の底に蓮宮れんぐうてて以て崇重そうじゅうす、釈迦薬師の光を並ぶるや威を現当げんとうに施し虚空地蔵の化を成すや益を生後にこうむらしむ、故に国主は郡郷を寄せて以て灯燭とうしょくを明にし地頭は田園をてて以て供養に備う。
 しかるを法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄ぶっだを貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の経典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏くぶつの志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧せそうおもいを忘る、故に仏堂零落れいらくして瓦松がしょうの煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜ごしゃくの心を捨てて並びに建立の思を廃す、是を以て住持じゅうじの聖僧行いて帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れひとえに法然の選択せんちゃくに依るなり、悲いかな数十年の間百千万の人魔縁まえんとろかされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。
第五段
 客殊に色を作して曰く、我が本師釈迦文しゃかもん浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞どんらん法師ほっしは四論の講説こうせつを捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師どうしゃくぜんじ涅槃ねはん広業こうぎょうきて偏に西方の行を弘め、善導和尚ぜんどうわじょう雑行ぞうぎょうなげうつて専修せんしゅうを立て、慧心僧都えしんそうずは諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす、弥陀みだを貴重すること誠に以てしかなり又往生おうじょうの人其れ幾ばくぞや、就中なかんずく法然聖人は幼少にして天台山に昇り十七にして六十巻にわたり並びに八宗をきわつぶさに大意を得たり、其の外一切の経論・七遍反覆はんぷく章疏しょうじょ伝記でんき究めざることなく智は日月にひとしく徳は先師に越えたり、然りといえども猶出離しゅつりの趣に迷いて涅槃ねはんの旨をわきまえず、故に徧く覿悉くかんがみ深く思い遠く慮り遂に諸経をなげうちて専ら念仏を修す、其の上一霊応れいおうを蒙り四えい親疎しんそに弘む、故に或は勢至せしの化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、然れば則ち十方の貴賤きせん頭をれ一朝の男女歩を運ぶ、しかしよりこのかた春秋推移おしうつり星霜相積れり、而るにかたじけなくも釈尊の教をおろそかにしてほしいまま弥陀みだの文をそしる何ぞ近年の災を以て聖代の時におおあながちに先師をそしり更に聖人をののしるや、毛を吹いてきずを求め皮をつて血を出す昔より今に至るまで此くの如き悪言未だ見ずおそる可く慎む可し、罪業至つて重し科条いかでのがれん対座猶以て恐れ有り杖に携われて則ち帰らんと欲す。
 主人みを止めて曰くからきことをたでの葉に習い臭きことを溷厠かわやに忘る善言を聞いて悪言と思い謗者ぼうしゃを指して聖人と謂い正師を疑つて悪侶にす、其の迷誠に深く其の罪浅からず、事の起りを聞けくわしく其の趣を談ぜん、釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実ごんじつを弁ず、而るに曇鸞どんらん道綽どうしゃく善導ぜんどう既に権に就いて実を忘れ先に依つて後を捨つ未だ仏教の淵底えんていを探らざる者なり、就中なかんずく法然は其の流をむと雖も其の源を知らず、所以ゆえんいかん大乗経の六百三十七部二千八百八十三巻・並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうの字を置いて一切衆生の心をとろかす、是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず、妄語もうごの至り悪口のとが言うてもならび無し責めても余り有り人皆其の妄語を信じ悉く彼の選択せんちゃくを貴ぶ、故に浄土の三経をあがめて衆経をなげうち極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る、誠に是れ諸仏諸経の怨敵おんてき聖僧衆人の讎敵しゅうてきなり、此の邪教広く八荒に弘まりあまねく十方にへんす。
 そもそも近年の災を以て往代おうだいを難ずるの由あながちに之を恐る、いささか先例を引いて汝が迷をさとす可し、止観しかん第二に史記を引いて云く「周の末に被髪ひはつ袒身たんしん礼度れいどに依らざる者有り」弘決ぐけつの第二に此の文を釈するに左伝さでんを引いて曰く「初め平王へいおうの東にうつりしに伊川いせに髪をかぶろにする者の野に於て祭るを見る、識者の曰く、百年に及ばじ其の礼先ず亡びぬ」と、ここに知んぬしるし前に顕れ災い後にいたることを、又阮藉げんせき逸才いつざいなりしに蓬頭散帯ほうとうさんたいす後に公卿の子孫皆之にならいて奴苟どこうはずかしむる者をまさに自然に達すと云い撙節兢持そんせつこうじする者を呼んで田舎でんしゃと為す是を司馬しば氏の滅する相とす已上。
 又慈覚じかく大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、「唐の武宗ぶそう皇帝・会昌えしょう元年勅して章敬しょうきょう寺の鏡霜きょうそう法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝えむ寺毎に三日巡輪じゅんりんすること絶えず、同二年回鶻国かいこつこくの軍兵等唐の堺を侵す、同三年河北の節度使忽ち乱を起す、其の後大蕃国ばんこくた命をこばみ回鶻国重ねて地を奪う、凡そ兵乱秦項しんこうの代に同じく災火邑里ゆうりあいだに起る、いかいわんや武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す乱をおさむること能わずして遂に以て事有り」已上取意。
 れを以て之をおもうに法然は後鳥羽院ごとばいん御宇ぎょう・建仁年中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す、汝疑うこと莫かれ汝怪むことかれ唯すべからきょうを捨てて善に帰し源をふさぎ根をたつべし。
第六段
 客いささやわらぎて曰く未だ淵底えんでいを究めざるにしばしば其の趣を知る但し華洛からくより柳営りゅうえいに至るまで釈門に枢楗すうけん在り仏家に棟梁とうりょう在り、然るに未だ勘状かんじょうまいらせず上奏に及ばず汝いやしき身を以てたやすゆう言を吐く其の義余り有り其の理いわれ無し。
 主人の曰く、予少量為りといえどかたじけなくも大乗を学す蒼蠅そうよう驥尾きびに附して万里を渡り碧蘿松頭へきらしょうとうかかつて千じんを延ぶ、弟子一仏の子と生れて諸経の王につかう、何ぞ仏法の衰微すいびを見て心情の哀惜あいせきを起さざらんや。
 其の上涅槃ねはん経に云く「若し善比丘あつて法をぶる者を見て置いて呵責かしゃく駈遣くけん挙処こしょせずんばまさに知るべし是の人は仏法の中のあだなり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞しょうもんなり」と、余・善比丘の身らずと雖も「仏法中怨」の責をのがれんが為に唯大綱たいこうつてほぼ一端いったんを示す。
 其の上去る元仁年中に延暦えんりゃく興福こうふくの両寺より度度奏聞そうもん・勅宣・教書を申し下して、法然の選択せんちゃく印板いんばんを大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしむ、法然の墓所に於ては感神院かんじんいん犬神人つるめそうに仰せ付けて破却せしむ其の門弟・隆観りゅうかん聖光しょうこう成覚じょうかく薩生さっしょう等は遠国おんごく配流はいるせらる、其の後未だ御勘気かんきを許されず豈未だ勘状をまいらせずと云わんや。
第七段
 客すなわやわらぎて曰く、経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し、然れども大乗経六百三十七部二千八百八十三巻並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうの四字に載す其のことば勿論なり、其の文顕然なり、此の瑕瑾かきんを守つて其の誹謗を成せども迷うて言うか覚りて語るか、賢愚けんぐ弁ぜず是非定め難し、但し災難の起りは選択に因るの由さかんに其の詞を増しいよいよ其の旨を談ず、所詮しょせん天下泰平国土安穏あんのんは君臣のねがう所土民の思う所なり、夫れ国は法に依つてさかえ法は人に因つて貴し国亡び人滅せば仏を誰かあがむ可き法を誰か信ず可きや(a)、先ず国家を祈りてすべからく仏法を立つべし若し災を消し難を止むるのじゅつ有らば聞かんと欲す。
 主人の曰く、余は是れ頑愚がんぐにしてあえて賢を存せず唯経文に就いていささか所存を述べん、そもそ治術じじゅつの旨内外の間其の文幾多いくばくぞやつぶさぐ可きこと難し、但し仏道に入つてしばしば愚案をめぐらすに謗法の人をいましめて正道のりょを重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん。
 即ち涅槃経に云く「仏の言く唯だ一人を除いて余の一切にほどこさば皆讃歎さんたんす可し、純陀じゅんだ問うて言く云何いかなるをか名けて唯除ゆいじょ一人と為す、仏の言く此の経の中に説く所の如きは破戒なり、純陀た言く、我今未だ解せず唯願くば之を説きたまえ、仏純陀に語つて言く、破戒とはいわ一闡提いっせんだいなり其の余の在所あらゆる一切に布施ふせすれば皆讃歎すべく大果報をん、純陀復た問いたてまつる、一闡提とは其の義いかん、仏言わく、純陀若し比丘びく及び比丘尼・優婆塞うばそく優婆夷うばい有つて麤悪そあくの言を発し正法を誹謗ひぼうし是の重業じゅうごうを造つて永く改悔かいげせず心に懺悔ざんげ無からん、是くの如き等の人を名けて一闡提の道に趣向しゅこうすと為す、若し四重を犯し五逆罪を作り自ら定めて是くの如き重事じゅうじを犯すと知れども而も心に初めより怖畏ふい懺悔無くあえ発露はつろせず彼の正法に於て永く護惜建立ごじゃくこんりゅうの心無く毀呰きし軽賤きょうせんして言に過咎かぐ多からん、是くの如き等の人を亦た一闡提の道に趣向すと名く、唯此くの如き一闡提のやからを除いて其の余に施さば一切讃歎せん」と。
 又云く「我れ往昔むかしおもうに閻浮提えんぶだいに於て大国の王と作れり名を仙予せんよと曰いき、大乗経典を愛念し敬重けいじゅうし其の心純善じゅんぜん麤悪嫉恡そあくしつりん有ること無し、善男子我の時に於て心に大乗を重んず婆羅門ばらもん方等ほうどう誹謗ひぼうするを聞き聞きおわつて即時に其の命根みょうこんを断ず、善男子是の因縁いんねんを以て是より已来いらい地獄じごくせず」と、又云く「如来昔国王と為りて菩薩の道を行ぜし時爾所そこばくの婆羅門の命を断絶す」と、又云く「殺に三有りいわ下中上げちゅうじょうなり、下とは蟻子ぎし乃至一切の畜生なり唯だ菩薩の示現生じげんしょうの者を除く、下殺げさつの因縁を以て地獄じごく・畜生・餓鬼がきしてつぶさに下の苦を受く、何を以ての故に是の諸の畜生に微善根びぜんこん有り是の故に殺す者はつぶさ罪報ざいほうを受く、中殺とは凡夫の人より阿那含あなごんに至るまで是を名けて中と為す、是の業因ごういんを以て地獄じごく・畜生・餓鬼がきに堕してつぶさに中の苦を受く・上殺とは父母乃至阿羅漢あらかん辟支仏ひゃくしぶつ畢定ひつじょうの菩薩なり阿鼻あび大地獄だいじごくの中に堕す、善男子若しく一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず、善男子彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提いっせんだいなり」已上。
 仁王経に云く「仏波斯匿はしのく王に告げたまわく・是の故に諸の国王に付属ふぞくして比丘・比丘尼に付属せず何を以ての故に王のごとき威力無ければなり」已上。
 涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相さいしょう・及び四部の衆に付属す、正法をそしる者をば大臣四部の衆まさ苦治くじすべし」と。
 又云く「仏の言く、迦葉かしょうく正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身こんごうしん成就じょうじゅすることを得たり善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭きゅうせん鉾槊むさくを持すべし」と、又云く「若し五戒を受持せん者有らば名けて大乗の人と為す事を得ず、五戒を受けざれども正法を護るをもっすなわち大乗と名く、正法を護る者はまさ刀剣器仗とうけんきじょう執持しゅうじすべし刀杖とうじょうを持すと雖も我是等を説きて名けて持戒と曰わん」と。
 又云く「善男子・過去の世に此の拘尸那城くしなじょうに於て仏の世に出でたまうこと有りき歓喜増益かんきぞうやく如来と号したてまつる、仏涅槃の後正法世に住すること無量億歳なり余の四十年仏法の末、の時に一の持戒の比丘有り名を覚徳かくとくと曰う、爾の時に多く破戒の比丘有り是の説を作すを聞きて皆悪心を生じ刀杖とうじょう執持しゅうじし是の法師をむ、是の時の国王名けて有徳うとくと曰う是の事を聞きおわつて護法の為の故に即便すなわち説法者の所に往至おうしして是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す、爾の時に説法者厄害やくがいまぬかることを得たり王・爾の時に於て身に刀剣箭槊むさくきずこうむり体にまったき処は芥子けしの如き許りも無し、爾の時に覚徳いで王をめて言く、善きかな善きかな王今まことに是れ正法を護る者なり当来とうらいの世に此の身まさに無量の法器と為るべし、王是の時に於て法を聞くことを得已つて心大に歓喜しいで即ち命終みょうじゅうして阿閦仏あしゅくぶつの国に生ず而も彼の仏の為に第一の弟子と作る、其の王の将従しょうじゅう・人民・眷属・戦闘有りし者・歓喜有りし者・一切菩提ぼだいの心を退せず命終して悉く阿閦仏の国に生ず、覚徳比丘かえつて後寿いのち終つて亦阿閦仏の国に往生することを得て彼の仏の為に声聞衆中しょうもんしゅうちゅうの第二の弟子と作る、若し正法尽きんと欲すること有らん時まさに是くの如く受持し擁護おうごすべし、迦葉かしょう・爾の時の王とは即ち我が身是なり、説法の比丘は迦葉仏是なり、迦葉正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん、是の因縁を以て我今日に於て種種の相を得て以て自ら荘厳そうごんし法身不可壊ふかえの身をす、仏迦葉菩薩に告げたまわく、是の故に法を護らん優婆塞うばそく等はまさ刀杖とうじょうを執持して擁護すること是くの如くなるべし、善男子・我涅槃の後濁悪じょくあくの世に国土荒乱こうらんし互に相抄掠あいしょうりゃくし人民飢餓きがせん、爾の時に多く飢餓の為の故に発心ほっしん出家するもの有らん是くの如きの人を名けて禿人とくにんと為す、是の禿人の輩正法を護持するを見て駈逐して出さしめ若くは殺し若くは害せん、是の故に我今持戒の人・諸の白衣の刀杖を持つ者に依つて以て伴侶はんりょと為すことをゆるす、刀杖を持すと雖も我是等を説いて名けて持戒と曰わん、刀杖を持すと雖も命を断ずべからず」と。
 法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終みょうじゅうして阿鼻獄あびごくに入らん」已上。
 夫れ経文顕然けんねんなり私の詞何ぞ加えん、凡そ法華経の如くんば大乗経典を謗ずる者は無量の五逆にすぐれたり、故に阿鼻大城に堕して永く出る無けん、涅槃経の如くんばたとい五逆の供を許すとも謗法の施を許さず、蟻子ぎしを殺す者は必ず三悪道に落つ、謗法を禁ずる者は不退の位に登る、所謂いわゆる覚徳とは是れ迦葉仏なり、有徳とは則ち釈迦文なり。
 法華涅槃の経教は一代五時の肝心かんじんなり其のいましめ実に重し誰か帰仰きごうせざらんや、而るに謗法のやから正道を忘れあまつさえ法然の選択せんちゃくに依つていよい愚癡ぐち盲瞽もうこを増す、是を以て或は彼の遺体いたいを忍びて木画もくえの像にあらわし或は其の妄説もうせつを信じて莠言ゆうげんかたちり之を海内かいだいに弘め之を郭外かくがいもてあそぶ、仰ぐ所は則ち其の家風かふう施す所は則ち其の門弟なり、然る間或は釈迦の手指てのゆびを切つて弥陀の印相いんそうに結び或は東方如来の鴈宇がんうを改めて西土教主の鵝王がおうえ、或は四百余回の如法経をとどめて西方浄土の三部経と成し或は天台大師の講をとどめて善導講と為す、此くの如き群類ぐんるい其れ誠に尽くし難し是破仏に非ずや是破法に非ずや是破僧に非ずや、此の邪義則ち選択せんちゃくに依るなり。
 嗟呼ああ悲しいかな、如来誠諦じょうたい禁言きんごんそむくこと、あわれなるかな愚侶迷惑の麤語そごしたがうこと、早く天下の静謐せいひつを思わばすべからく国中の謗法を断つべし。
第八段
 客の曰く、若し謗法の輩を断じ若し仏禁のぜっせんには彼の経文の如く斬罪ざんざいに行う可きか、若し然らば殺害相加つて罪業いかんがんや。
 則ち大集経に云く「こうべ袈裟けさちゃくせば持戒及び戒をも、天人彼を供養す可し、則ち我を供養するに為りぬ、是れ我が子なり若し彼を撾打かだする事有れば則ち我が子を打つに為りぬ、若し彼を罵辱めにくせば則ち我を毀辱きにくするに為りぬ」はかり知んぬ善悪を論ぜず是非をえらぶこと無く僧侶為らんに於ては供養をぶ可し、何ぞ其の子を打辱だにくしてかたじけなくも其の父を悲哀せしめん、彼の竹杖ちくじょう目連尊者もくれんそんじゃを害せしや永く無間の底に沈み、提婆達多だいばだった蓮華れんげ比丘尼を殺せしや久しく阿鼻のほのおむせぶ、先証れ明かなり後昆こうこん最も恐あり、謗法をいましむるには似たれども既に禁言を破る此の事信じ難し如何いか意得こころえんや。
 主人の曰く、客明に経文を見てなお斯の言を成す心の及ばざるか理の通ぜざるか、全く仏子をいましむるには非ず唯ひとえに謗法をにくむなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍のうにんの以後経説は則ち其のとどむ、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せばいかなる難か並び起り何なるわざわいか競い来らん。
第九段
 客則ち席をえりつくろいて曰く、仏教斯くまちまちにして旨趣ししゅきわめ難く不審多端ふしんたたんにして理非明ならず、但し法然聖人の選択せんちゃく現在なり諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうす、其の文顕然なり、れに因つて聖人国を去り善神所を捨てて天下飢渇きかつし世上疫病えきびょうすと、今主人広く経文を引いて明かに理非を示す、故に妄執もうしゅう既にひるがえり耳目しばしば朗かなり、所詮しょせん国土泰平たいへい・天下安穏は一人より万民に至るまで好む所なりねがう所なり、早く一闡提いっせんだいを止め永く衆僧尼のを致し・仏海の白浪はくろうを収め法山の緑林をらば世は羲農ぎのうの世と成り国は唐虞とうぐの国と為らん、然して後法水ほっすいの浅深を斟酌しんしゃくし仏家の棟梁とうりょう崇重そうじゅうせん。
 主人よろこんで曰く、はとしてたかと為りすずめ変じてはまぐりと為る、よろこばしきかな汝蘭室らんしつの友にまじわりて麻畝まほの性と成る、誠に其の難をかえりみて専ら此の言を信ぜば風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならん、但し人の心は時に随つて移り物の性は境に依つて改まる、たとえばなお水中の月の波に動き陳前じんぜんいくさの剣になびくがごとし、汝当座とうざに信ずと雖も後定めて永く忘れん、若し先ず国土を安んじて現当げんとうを祈らんと欲せば速に情慮じょうりょめぐらしいそい対治たいじを加えよ、所以ゆえんいかん、薬師経の七難の内五難たちまちに起り二難なお残れり、所以いわゆる他国侵逼しんぴつの難・自界叛逆じかいほんぎゃくの難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革ひょうかくの災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊おんぞく国内を侵掠しんりゃくする此の災未だあらわれず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今さかんにして一難未だ現ぜず所以いわゆる四方の賊来つて国を侵すの難なり加之しかのみならず国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱ると、今此の文に就いてつぶさに事のこころを案ずるに百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法のとがに依つて並び起り競い来らば其の時いかんがんや、帝王は国家をもといとして天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来つて其の国を侵逼しんぴつし自界叛逆して其の地を掠領りゃくりょうせば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家をめっせばいずれの所にか世をのがれん汝すべからく一身の安堵あんどを思わば先ず四表の静謐せいひついのらん者か、就中なかんずく人の世に在るやおのおの後生を恐る、是を以て或は邪教を信じ或は謗法を貴ぶおのおの是非に迷うことを悪むと雖も而もなお仏法に帰することをかなしむ、何ぞ同じく信心の力を以てみだりに邪義の詞をあがめんや、若し執心しゅうしんひるがえらず亦曲意きょくい猶存せば早く有為ういさとを辞して必ず無間の獄に堕ちなん、所以ゆえんいかん、大集経に云く「若し国王有つて無量世に於て施戒慧せかいえを修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護おうごせずんば是くの如くゆる所の無量の善根悉く皆滅失し、乃至其の王久しからずしてまさに重病に遇い寿終じゅじゅうの後大地獄に生ずべし・王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官さいかん亦復また是くの如くならん」と。
 仁王経に云く「人仏教をやぶらばた孝子無く六親不和にして天竜もたすけず疾疫しつえき悪鬼日に来つて侵害し災怪さいげ首尾しゅび連禍れんか縦横じゅうおうし死して地獄・餓鬼がき・畜生に入らん、若し出て人と為らば兵奴ひょうぬの果報ならん、響の如く影の如く人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復またまた是くの如し」と。
 法華経の第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば乃至其の人命終みょうじゅうして阿鼻獄に入らん」と、同第七の巻不軽品に云く「千こう阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と、涅槃経に云く「善友を遠離おんりし正法を聞かず悪法に住せば是の因縁の故に沈没ちんぼつして阿鼻地獄に在つて、受くる所の身形しんぎょう・縦横八万四千由延ならん」と。
 広く衆経をひらきたるに専ら謗法を重んず、悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、愚なるかなおのおの悪教のつなかかつてとこしなえに謗教のあみまつわる、此の朦霧もうむの迷彼の盛焰じょうえんの底に沈む豈うれえざらんや豈苦まざらんや、汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れおとろえんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊はえなくんば身は是れ安全・心は是れ禅定ぜんじょうならん、此のことば此の言信ず可くあがむ可し。
第十段
 客の曰く、今生こんじょう後生ごしょう誰か慎まざらん誰か和わざらん、此の経文をひらいてつぶさに仏語を承るに誹謗ひぼうとが至つて重く毀法の罪誠に深し、我一仏を信じて諸仏をなげうち三部経を仰いで諸経をさしおきしは、是れ私曲しきょくの思に非ず則ち先達せんだつの詞に随いしなり、十方の諸人も亦復また是くの如くなるべし、今の世には性心を労し来生には阿鼻にせんこと文明かに理つまびらかなり疑う可からず、いよいよ貴公の慈誨じかいを仰ぎ益愚客の癡心ちしんを開けり、速に対治をめぐらして早く泰平を致し先ず生前しょうぜんを安じて更に没後ぼつごたすけん、唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ。
(a) 日蓮の安国観念の独自性は、その中心的意味を天皇などの特定の権力(狭義の国家=王法)の安泰から広義の国家としての国土と人民の安穏へと転換させたところにあった…一見すると「安国」「護国」といった類似の言葉を用いながらも、それが支配者とりわけ天皇の安泰を第一義としていた伝統仏教と、その中心概念を国土の安寧と人民の平和へと転換させた日蓮の間にはきわめて大きな隔たりがあったのである。[佐藤 p. 38]

戸田城聖著『日蓮大聖人御書十大部講義「立正安国論」』

三つのブログ

現在運営しているブログの主なページは次のとおりです。アクセス件数は多くありませんが、それぞれ僕の考えや関心を伝えています。

domaincontentsstats*
oguris.blog민갑완
写真で見るカブァンと同時代
忘れられた韓国人
잊혀져 간 한국인
한겨레신문 2014.07.22
 八戸歳々時記
 오태규ほか
16,126
goolees.blog민갑완
 「ハイジン教」仮説
MY LIFE 1950-2030
日本のえと(兄弟)
兄弟(えと)と九星ほか
14,557
oguriq.com習作: 闇の恐怖と山の神々
習作: いつか名もない魚(うを)になる
習作: ふたつの風景
習作: 一匹の黒犬
放射する文章ほか
13,617
     合計44,300
* as of 2022/09/04

Min Kabwan, a Forgotten Korean

[Translated with http://www.DeepL.com/Translator (free version)]

Few people in Korea or Japan know of Min Kabwan (1897-1968). Although her autobiography, “One Hundred Years of Resentment,” was made into a movie in 1963, Min Kabwan has been completely forgotten in the 54 years since her death.

The Life of Min Kabwan

In 1907, when Japan’s annexation of Korea was underway after two Japan-Korea agreements since the end of the 19th century, at the age of 9, she became the fiancé of Yee Eun, the last crown prince of the Joseon Dynasty, but the crown prince was taken to Japan immediately after their engagement. With the ongoing colonization by Japan, Kabwan was forced to break off the engagement at the age of 21, a little more than 10 years after the engagement. Six months later, her grandmother died in deep sorrow, and six months after that, her father died shortly after taking a medicine prepared by a doctor named An.

At the age of 22, Kabwan’s life became increasingly unsafe, and she took her younger brother Chonen and went into exile in Shanghai, where many Koreans were living in exile at the time. During her 26 years in Shanghai, she changed her residence several times to escape Japanese officials. She was forced to live like a fugitive, unable to leave the house freely. Her fiancée, Yee Eun, went to Japan when he was 10 years old and spent most of his life there. In the year of Kabwan’s exile, he married Nashimoto-miya Masako, who was also a candidate for the position of queen of the Emperor Showa.

It is difficult for people today to understand, but there was a society in the first half of the 20th century in which getting engaged carried the same weight as marriage. During her exile in Shanghai, several men approached her, and some people around her, including spies dispatched by the governor-general, advised her to get married. In particular, a Chinese female revolutionary, who had also remained celibate throughout her life, tried to persuade Kabwan, but she remained celibate for the rest of her life. The deep melancholy and loneliness that overflows between the lines of this book are poignant and appealing even to people today.

In May 1946, Kabwan returned to South Korea after debating whether or not to stay in Shanghai, but the latter half of her life was not smooth: in 1950, when she had found enough money to start a social welfare project, it was cut short by the outbreak of the Korean War. It is heartbreaking to think of her huddled with her younger brother and her family downstairs in a Western-style house called Sadong-gung in Jongno, shivering at the sound of artillery shells.

In the early morning of June 26, 1950, she and her younger brother’s family risked their lives to cross the Han River and head for Cheongju, her father’s hometown. After the war, she and her family settled in Busan, the southernmost part of the Korean Peninsula, at the behest of Chonen, who believed that the North would invade again.

Personal History Forces Review of Contemporary History

What does Kabwan’s life, which could be said to have been tossed about by the modern Japanese and Korean history, tell us? As we have passed the centennial of Japan’s annexation of Korea in 1910, Kabwan’s “One Hundred Years of Resentment” is more than just a record of one Korean woman’s life. It is also a book that will compel us to rethink history, the state of the nation, and the lives of those who are at its mercy.

Kabwan was continuously tossed about by major events in the modern history, including the annexation of Korea (1910), the Sino-Japanese War (1937-45), and the Korean War (1950-1953). In tracing her life, we are forced to reflect on the history of Korea and Japan. It is important to note that the significance of these events differs greatly between Japan and Korea.

For example, the year 1910 was a loss of national rights for Korea, but an expansion of its territory for Japan; the liberation of Korea on August 15, 1945 (Kwangbok) was a defeat and the end of the war for Japan; was the end of the war for Korea. Or the war that ravaged the entire Korean Peninsula from 1950-1953, brought a special procurement boom to Japan.

What makes her autobiography “One Hundred Years of Resentment” more than a personal history of a woman is that her life was not only continuously tossed about, but also greatly disrupted by these major events in modern history. Each fragment of contemporary history that comes to light through the record of her life seems to force us to rethink the history of Japan and South Korea.

[Translated with http://www.DeepL.com/Translator (free version)]

Korea and Imperial Japan(2)

Korea and Imperial Japan よりつづく

韓國統監府日本が韓国を支配するために設置した統治機構。1905年11月17日、第二次日韓協約を結び韓国の外交権を剥奪し、統監及び理事官を置いた。11月21日、統監府を京城に設置し、統監には伊藤博文が就任した。統監は天皇に直隷し、韓国において日本政府の代表となり、また韓国の外交に関する事項を統轄した。さらに、必要に応じて韓国守備軍への指揮権が統監に付与された。統監府が設置されるまでに日本は韓国に対して、防衛・外交・財政・交通・通信・拓殖の諸分野への影響力を有していた。統監府には総務部・外務部・農商工部・警務部が置かれた。所属官署として通信官署(通信管理局・郵便局・郵便所)・鉄道管理局・法務院・裁判所を管轄していた。1907年7月には第三次日韓協約が締結され、同10月には官制改正がおこなわれる。その後も韓国の主権は縮小され、韓国併合直後の1910年10月1日に統監府は朝鮮総督府に改変された。
理事庁韓国統監府の職務を分掌するため各地に置かれた機構。1905年11月27日、第二次日韓協約が締結されると第三条に基づいて、韓国の各開港場と日本国政府の必要と認める地に理事庁が置かれた。理事官(奏任官)は統監の指揮監督を承け、これまで領事館が担ってきた業務を引き継いだ。さらに安寧秩序を保持するために緊急の必要があると認める場合、当該地方駐在帝国軍隊の司令官に出兵を請うことができ、また韓国の施政事務であって条約に基づく義務の履行のために必要があれば、韓国当該地方官憲に執行させることができた。理事庁は釜山・馬山・群山・木浦・京城・仁川・平壌・鎮南浦・元山・城津・大邸・新義州・清津に設置された。1907年9月の官制改正で理事庁の警察官は廃止され、看守を置くことになった。1910年7月、理事庁の警察事務は警務総監部または各警務部に移管、同年10月に朝鮮総督府が成立すると理事庁は廃止され、船舶および船員に関する事務は税関に、戸籍に関する事務は警察署に移管され、その他の業務は道および府に引き継がれた。
朝鮮総督府1910年8月韓国併合に伴い、日本が朝鮮を統治するために設置した機関。韓国統監府を前身とし、韓国政府の諸機関を統合・改変後、1910年9月に公布された「朝鮮総督府官制」に基づいて京城に設置された。総督府には総督と補佐役の政務総監の下に、総督官房および総務・内務・度支・農商工・司法の5部が設置され、所属官署として警察・裁判所を含む各諸機関が置かれた。その後、数次の官制改革が行われたなかでも、1919年8月と1943年12月に行われた改正は大規模であった。1919年、三・一独立運動の結果、武断政治の限界が明らかとなり、文化政治へ転換。総督の任用範囲を文官にまで拡げ、陸海軍統率権を撤廃したが、文官が総督に就くことはなかった。また総督府の機構も改編し、所属官署の警務総監部・各道警察部を廃止。憲法警察制度を廃止したが、警察署・派出所の数は増加した。1943年の改革では、内務大臣が総督に対して「統理上必要ナル支持」を行うことができるよう、軍需省の新設など中央政府の改変にあわせて改められた。官制改正毎に機構体制が変わっても、総督府支配の軍事的な背景のもとで統治をおこなう性格は変わらなかった。
年表アジ歴グロッサリー: 公文書に見る明治日本のアジア関与 内政・外政・工業 航路・電信・燈台
アジ歴グロッサリー: 公文書に見る「外地」と「内地」より転載(写真・文とも)

Kabwan and her contemporary

Min Kabwan and her niece, Shanghai(1)
カブァンと姪ビョンスン(上海時代) 민갑완과 질녀 병순, 상해시대

…僕は何かに追い立てられるように민갑완ミンカブァンの写真や資料を集め…

[02] 민갑완 묘비, 부산 용호동 천주교공동묘지
カブァンの墓碑(プサンのカトリック共同墓地にあった) 민갑완 묘비, 부산 용호동 천주교공동묘지
西紀一八九七年九月二五日駐英公使閔泳敦氏의三女로서울笠洞서誕生
一九〇七, 二, 一, 英親王妃三揀擇日帝侵略으로九一八, 一, 三, 高宗皇帝가下賜한信物強奪破婚害로上海亡命, 一九四五年祖國光復과함께帰
一九六二年手記「百年恨」發表, 翌年映畫化
忠臣不事二君烈女不更二夫의굳은理念下에生을童貞으로一九六八年二月一九日聖芬道院에서善終하시다
이生에서못피우신青春天國에서永樂하소서
  西紀一九六八年二月二十三日
(↑写真下に隠れた五字[太字]を読者の指摘により復元した)

[06] 민영환
叔父ミン・ヨンファン(閔泳煥) 민영환
[08] 3.1운동, 덕수궁 대한문 경성일보사 앞, 1919년
1919年の3・1運動(徳寿宮大漢門、京城日報社前) 3.1운동, 덕수궁 대한문 경성일보사 앞, 1919년
徳寿宮中和門から見た中和殿と石造殿:1910-11年
徳寿宮中和門と中和殿(1910-11年) 덕수궁 중화문 및 중화전, 1910-11년
徳寿宮の中和殿(2)
徳寿宮中和殿(現在) 덕수궁 중화전, 현재 모습
[14] 서울시 청계천 수표교, 1902년
ソウル市清渓川の水標橋(1902年) 서울시 청계천 수표교, 1902년
現在の水標橋
ソウル市清渓川の水標橋(現在) 서울시 청계천 수표교, 현재 모습
[17] 일본 황태자 방한 기념 사진, 1907년
嘉仁親王[後の大正天皇]の訪韓記念写真(1907年) 일본 황태자 방한 기념 사진, 1907년
京仁線開通時の仁川駅:1899年
京仁線開通時の仁川駅(1899年) 경인(京仁)선 개통시의 인천역, 1899년
仁川港:1925年ごろ
仁川港(1925年前後) 인천항, 1925년 전후
[25] 김규식
キム・ギュシク(金奎植) 김규식
Miss Hannah Fair Sallee, Principal:晏摩女中の年刊(1940年)より
晏摩氏女中サリー校長(1915-25年)、Ms. H. F. Sallee 암마시스쿨 교장(1915-25년) Ms. H. F. Sallee
Eliza Yates Girls' School, 1925
晏摩氏女中の校舎 암마시스쿨 교사
Shanghai Jiao Tong University, 2007
上海交通大学構内にある建物(晏摩氏女中の場所) 암마시스쿨이 있었던 곳, 현재 상해교통대학교 구내에 있는 건물
大韓民国臨時政府の旧跡
大韓民国臨時政府の旧跡 대한민국 임시정 옛터
大韓民国臨時政府の旧跡内にある金九像と執務室
大韓民国臨時政府キム・グ(金九)執務室 대한민국 임시정부, 김구 집무실
[42] 6.25 직후 남산에서 본 서울역 부근 모습, 1950년
1950年6月25日、朝鮮戦争勃発直後のソウル駅 6.25 직후 남산에서 본 서울역 부근 모습, 1950년
[43] 부산항과 부산역 1950년
プサン港・プサン駅(1950年) 부산항과 부산역 1950년
[46] 수복직후의 서울역과 주변 모습, 1950년 9울 28일
1950年9月28日、修復直後のソウル駅 수복직후의 서울역과 주변 모습, 1950년 9월 28일
[49] 민갑완 종언(終焉)의 지 장전(長箭)동, 1956년 사진
カブァン終焉の地プサン市金井区長箭洞(1956年) 민갑완 종언(終焉)지 장전(長箭)동, 1956년 사진
[50] 부산, 성분도병원 빌딩
カブァンが逝去したプサン市聖芬道病院 부산, 성분도병원 빌딩
閔甲完の骨壺(左上)と閔千植夫妻の骨壺(右上)
プサン市機張郡シロアム公園墓苑納骨堂 실로암공원묘원 납궐당
Min Kabwan and her brother's family, Shanghai(2)
弟のチョンシク(閔千植)家族とカブァン(上海時代) 민천식 가족과 민갑완, 상해시대

SHARE THIS:

암마시스쿨 In search of old Shanghai

15年前、僕は何かに追い立てられるように민갑완ミンカブァン(閔甲完 1897-1968)に関わる写真や資料を集めていた。上海語の個人授業も受けた。羽田から上海虹橋ホンチャオ空港に飛んだのは2007年4月20日だった。同年12月と09年8月にも上海を訪ねている。カブァンの上海亡命中の暮らしについて確認したいことがいくつかあったからだ。木之内誠編著『上海歴史ガイドブック』(大修館書店 1999年)を片手に上海市内を徘徊はいかいした。

1920年7月に仁川インチョンを出港したカブァンと弟は上海に到着してから約3ヵ月を東亜トンヤー飯店というホテルで過ごした。そのホテルは現在も南京路ナンチンルーに面して建ち、往年の姿を留めている。そこに韓国臨時政府の김규식キムギュシク(金奎植 1881-1950)が訪ねて来る。同年10月、彼の采配さいはいでカブァンと弟は암마시스쿨アムマシスクールに入学するのだが、彼らが長期滞在したホテルかどんなところだったのか、アムマシスクールというのがどこにあってどんな学校だったのか、よくわからなかった。

翻訳原稿を読み返しても何らの風景も浮かんでこない。このばくとした曖昧あいまいさが僕を苛立いらだたせあせらせていた。上海の当時の地図と「歴史ガイドブック」を頼りにほとんど無計画のまま上海に行き、少しずつ画像化していったのだ。このとき、翻訳編集は新たな段階に入っていたと思う。単なる字面じづらの翻訳では納得できなかったのだ。彼女をほかにも大勢いたであろう日韓史の犠牲者の一人として伝えても無意味だと思うようになった。

カブァンという女性について、韓国でも日本でもほとんどの人は知らないし、たとい知ったとしても関心を示さない。たまたま関心を抱き、自伝の翻訳を通して多くを知り得た者として、それを一人でも多くの人に伝えたいのだが、いまだにその方法を考えあぐねている。

以下、カブァン自伝より上海に亡命した直後のようすを伝える部分(仮訳)を紹介する。くり返し読みセリー校長の顔写真を見ていると、この人はこんな眼でじっとカブァンと弟を見つめたのだろうと思う。慈愛じあいに満ちた表情で彼らをあたたかく見守ってくれたに違いない、などと思う。

金奎植キムギュシク博士の言葉は、泣きながら過ごしてきた私に警鐘けいしょうを鳴らしてくれました。博士にお会いした3日後、私とチョネンは博士の紹介で学校に行きました。晏摩氏アンマシスクール[1]というアメリカ人女性セリー校長[2]が経営する大きな学校で初中等教育課程を持っていました。ピアノが12台もある音楽室があり、大きな図書館もありました。
キム博士が「韓国の愛国烈士れっしの子女」が亡命してきたと伝えていました。校長は私たちを丁重ていちょうに迎えいれ、中国語の個人指導教師まで手配してくれました。
私は中等部に入り、チョネンは初等部に入って学ぶことになりました。ただ、しばらくはまるで案山子かかしのように、他の生徒が教室に入れば入り、出るとあとについて出る、それしかできませんでした。
中国語の個人指導はとても効果的でした。他のことはともかく、知らない国で暮らしていて言葉が通じない苦しみほどつらいことはありません。生まれ落ちたときからの聾唖者ろうあしゃでもない私があらゆることに目つきと手ぶりで応じるのですから、本当に気が滅入めいりました。
韓国にいたときも、中国行きが決まってからひそかに中国人を奥の部屋に呼んで3-4ヵ月教えてもらいましたが、使おうとしても思うように言葉が出てきません。個人指導をしていただくのも主に筆談ひつだんでした。文字に書いて音を習ったのです。
いつしか冬も過ぎ、春が来ました。私の上海もかなり上達し、簡単な言葉なら話すことができるようになりました。時間があるときは中国の怪談の本を読んだり、お手伝いさんと話したりしました。
叔父がバス会社のマネージャーだったので、3ヵ月のホテル生活を切り上げ家を借りて暮らすことができました。フランス租界の保裕里ポユリにある質素な家で、二人の叔父と叔母にチョネンと私の5人で暮らしました。言葉がよく通じないからとお手伝いさんを置いたのですが、今ではかなり言葉も通じるようになりました。
ある日、人をかいして韓国から便りが届きました。上海に到着してからも、ときどき手紙だけはやり取りしていたのです。これまでは私たちに心配をかけまいと、安否あんぴを尋ねる簡単なものでした。ところが、今回の手紙で家がたいへんな状態にあることを知らされました。
私たちが上海に渡って3ヵ月過ぎてから刑事たちが次々と家に訪ねてきたそうです。「娘をどこに隠したんだ」「早く手紙を出して呼び戻せ」などと叫び、ありとあらゆる狡猾こうかつ脅迫きょうはくをしたといいます。さらに、母方ははかたの祖父と母を交替で投獄して苦しめたというのです。母は私のことで、祖父は叔父たちのことで、このような目にったのでした。
[1] Eliza Yates School、1940年(中華民國曆29年)発行、許晩成編「上海學校調査錄」(Directory of Schools and Institutions in Shanghai)には「晏摩氏女中、外灘7號大廈4樓、應美瑛校長、敎會立」「卽前省立松江中學(松江高級中學、靜安寺路591弄141號)」とある
[2] Miss Hannah Fair Sallee [写真] 1915-25年校長

방정웅小説集「白いムクゲ」出版

방 정웅パン ジョンウンさんがこれまでに書きためた小説を集め『白い木槿むくげ』と題して出版しました。版元は図書出版「新幹社」です。「おめでとうございます」、旧正月の喜びが伝わってくるようです。在日総合誌「抗路(八号)」(抗路舎2021年3月)に掲載された「湊川高校・朝鮮語教師の物語」へのリンクも張りました。

『白い木槿むくげ』あとがきより
在日コリアンとして日本に生まれ、生きていく中で気がつくと「くすぶった思い」を持ち続けている自分がいました。しかし日々の生活に追われ、いつもの日常が過ぎていきます。くすぶった思いの昇華しょうかの手段として「小説」に向かったのは、小説世界に入ることで救われた思いが幾度いくどかあったからです。
高校教員生活を終え、意を決して「大阪文学学校」の扉を恐るおそるけました。今まで生きてきた在日コリアンとしての思いを、素朴そぼく庶民しょみんの視点から喜び悲しみを淡々たんたんと描きたい、そんな希望を持って入っていった「文学の森」の道はけわしく、進むことも戻ることもできない時期が何度かありました。同じ思いを持った仲間に救われ、今に至っています。
このかん書きつづった中短編の中から四編を選びました。幸いなことに「文学賞」と名のつくささやかなご褒美ほうびも何度かいただき、それが砂漠で水を与えられたように歩み続ける励みともなりました。
「くすぶり」はそう簡単には消えそうもありません。それがある限り「このまま死ねるか」と、自分の胸だけにそっと仕舞しまい、これからも精進しょうじんしていきたいと思っています。
author profile
name방정웅 方政雄(パン・ジョンウン)
birth1951 年神戸生まれ
identity在日韓国人二世
job元兵庫県立湊川高等学校教員
author『ボクらの叛乱』(兵庫県在日外国人教育研究協議会) 
co-author『教育が甦る―生きること学ぶこと』(国土社)
『阪神大震災 2000 日の記録』(神戸新聞総合出版センター)
『多文化・多民族共生教育の原点』(明石書店)
『韓国語・朝鮮語教育を拓こう』(白帝社) ほか
activities伊丹市民祭り、出会いのひろば「伊丹マダン」代表。地域の多文化共生を深める活動を続けている。

電車という名の動く寺院 mobile temples (a short story)

この短編を「縦書き文庫」でお読みください. Click!
関連作: 老人たちよ異界でタンゴを舞うな

鉄道会社の駅務員だった主人公はその仕事を天職と信じ、他の誰よりも献身的に駅務に尽くしました。おそらくその献身ぶりがたたったのでしょう。半年あまり過ぎたころから精神に変調をきたし、一年ほどでめてしまいます。以下の文章は、そのあいだに彼が観察した電車と駅構内などにおける人々の生態について彼が担当医と記録係に話した内容をもとにしています。

駅のホーム

大きくカーブした線路に沿ってホームが弧状こじょうに延びている。ホームの上には、白い塗料をぬりたくった鉄柱が規則正しく並び、半透明なアーチ状の屋根を支えている。何本かおきに柱の上方に取りつけられたスピーカーが、朝暗いうちから深夜まで、一定の間隔をおいて電子音のチャイムと駅員のヒステリックな声を吐き出し続ける、いかにも都会的で無機質むきしつな風景だ。

電車の最前部の車輌が、みるみる大きくなって駅に近づいてくる。

ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)
電車が入ってまいります(録音された声が流れる)
足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声が流れる)

朝のラッシュ時間、ひっきりなしにホームに入ってくる電車が威厳いげんを示すように警笛けいてきを鳴らすたびに、駅員たちがあわただしく動き回り、苛立いらだたしげに決められた台詞せりふを叫ぶ。それにあおられるかのように、ホームを行き来する人々の動きがあわただしさを増す。

電車が入ってまいります(録音された声)
ピピーピッピー(駅員がホイッスルを吹く)
足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声)
ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)

駆けこみ乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)

ダンダラダーダンダラダーダンダラダラダー(発車の電子音が響く)
ドアが閉まります、無理なご乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)
次の電車がまいります(電光掲示板の文字が表示される)
次の電車をご利用ください(駅員が叫ぶ)

電車が発車します、おさがりください(駅員が叫ぶ)
ピピーピッピー(ホイッスルが鳴る)

この物語の主人公である凭也ヒョーヤは、朝のホームが好きだった。毎朝夕こんな光景を見ていた。そのまっただなかで、改札口を通り過ぎていく相手の定まらない人々に向かって、数秒ごとにあいさつをくり返すのが彼の仕事だった。仕事の一部としてそうするのだが、彼にあいさつを返す人はいない。改札係など機械じかけの人形ぐらいにしか考えていない人々は、うつむき加減かげんに急ぎ足で彼のよこを通り過ぎるだけだ。彼が発するあいさつのことばは人々の靴音くつおとのなかにむなしく消えていく。

ドドッドドッドドードドッドドッドドー(人々の靴音が響く)
おはようございます、おはようございます(改札係が声を出す)
通勤お疲れさまです、お疲れさまです(改札係があいさつする)

改札係になって数ヵ月のあいだ、凭也は駅のホームとそこを通過する電車が作り出す光景が神聖な伽藍がらんのように見えた。朝夕の陽光を浴びてホームを動き回る人びとの姿は敬虔けいけんな信者のように映ったし、仕事とはいえ宗教儀礼のようにあいさつすることに何の疑いもいだかなかった。人々に対して、家畜に対したときのような優越感を抱くことはあったが、ホームも駅舎もすべて通過する人々の寄進きしんで建てられたものだったし、彼らがいなくなれば改札係もいらなくなると考えていた。まるで当然のことのように、通過していく人々をうやまっていたのである。

お勤めごくろうさまでした、ごくろうさまでした(改札係があいさつする)
本日もご利用いただき、ありがとうございました(改札係が頭をさげる)
ありがとうございました、ありがとうござ……

電子音と駅員たちの声がスピーカーから流れるたびに、ホームの光景に彼らの苛立ちと怒りが渦巻うずまいているように感じるようになったのは半年ほどたってからだった。それでも、自分をとりまく光景を不自然に感ずることはなかった。ごくあたりまえのことだと考えていた。一年以上ものあいだ、彼はほとんど休むこともなく働きつづけたのだから。それは敬虔といってよいほどであった。それがわざわいしたのかもしれない。いつのころからか、駅員たちの叫び声が罵声ばせいに聞こえるようになった。

おい、いったい何度いったらわかるんだ
ホームのはしを歩くんじゃない
ドアがしまるといってるんだ
おい、走るんじゃない
ほかの人に迷惑だからやめろといってるんだ
やめないか、おい、いい加減にしろ
おまえたちなんか家畜とおんなじだ
電車に引かれて死んでしまえ
死んでしまえばいいんだ

つづきは縦書き文庫でお読みください。→「電車という名の動く寺院」

写真: 韓国・京仁線の仁川駅(1899年) 경인(京仁)선 인천역, 1899년

絵画とデッサンで描くタンゴの世界

パリ在住の日本人画家でタンゴ・ミロンゲロ(一般的に知られているショータンゴとは異なるブエノスアイレス生まれの伝統的な<タンゴ> tango milonguero)の普及に努める女性がいます。僕も大いに感化され<タンゴ>に魅せられた者の一人です。

<タンゴ>の何に魅了されたのでしょう。おそらく最大の理由は僕に<タンゴ>を教えてくれる人が<ダンサー>ではないことです。同世代ということもあるかもしれません。半世紀ほど異国で過ごし、画家を本業としながら、さまざまなダンスを習った末に<タンゴ>に出会って魅了された、そういう来歴らいれきに引かれたのです。

そんな彼女をとりこにした<タンゴ>に僕も魅了された。まだうまくリードできないのに不遜ふそんながら、そう考えています。彼女が絵画とデッサンで描く<タンゴ>の世界に引かれたということです。70歳にしてこういう世界を知った者は仕合しあわせというべきでしょう。

…日本人も勿論もちろんアジア系なのですが、中国人や韓国人と違って、独特の内向性ないしストイック(抑制的)な面を備えています。タンゴの持つ情熱的な要素とこの抑制的な要素がぶつかると、そこに葛藤かっとうを生じます。とくに、ミロンゲロではペア同士が体を接することもあり、異性をハグ(抱擁ほうよう)することにれていない多くの日本人はその違和感をだっしないまま、タンゴから遠ざかってしまうようです。
長年パリに住みながら、過去10年ほどのあいだ何度か日本に短期滞在し、タンゴに魅せられた人々を観察してきた私は、日本美の根底に抑制された美意識を見ます。情熱を抑制しながら表現できるようになると、単なる情熱の表出とは違う一種の気品や格調の高さが生まれます。それが日本的なタンゴだといえるかもしれません。
日本人はそういう抑制された感情表現が得意だと思うからです。ただ、その抑制力が否定的に作用すると内向きになり、単なる内気になってしまいます。それを克服こくふくして情熱を表現できたら本当にすばらしい。タンゴと日本的な美意識を融合する—そんなことをめざす人が増えたら、とひそかに期待しています…
パリから見た日本のタンゴ tango milonguero より
(c) wakakoyamamoto

「ハングルの誕生」平凡社ライブラリーに

10年余り前に出版された『ハングルの誕生』(野間秀樹著、平凡社新書版)が平凡社ライブラリーから『新版ハングルの誕生』として出版された。副題も新書版の「(おん)から文字を創る」から「人間にとって文字とは何か」に変わった。

10年を経てライブラリーに入る、すごいことだと素直に思う。以前、僕の処女作を読んでいただき、ほめてくださったが、こちらは一向に読者が増えない。著者がほめるということは、僕の文章は難解なのか、と考えていた。

そういえば、新書版の原稿を読ませてもらったときも、「難しい」などと勝手なことを言ってしまった。何年もお会いしていないが、再会したら「還暦を過ぎて文章がやさしくなりましたね」と言うつもりだ。

ライブラリー版と新書版を比較すると、「あとがき」がずいぶん異なる。故人名が連ねられていて年齢を感じさせるからかもしれない。新書版にない序文は、以前より文章が読みやすい。ライブラリー版は改稿した部分も多いという。もう一度読み直してみようと思う。

2021-2030

%d bloggers like this: