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Korea and Imperial Japan

ミンカブァン関連年表: [ ]内は陰暦

1875.8.25 大日本帝國の軍艦雲揚号 江華島付近で武力示威行動、永宗ヨンジョン島に上陸し住民を殺害 9.20 江華島事件起きる 10月 帝國軍艦 釜山に来航し武力示威行動
1876.1.26 日朝修好条規(江華条約)に調印
1880.4.17 漢城ハンソン(現在の서울ソウル)に大日本帝國公使館を設置 12月 花房義質 弁理公使に着任
1882.7.23 朝鮮兵 帝國公使館を襲撃(壬午임 오変乱) 8.30 済物浦チェムルポ(現・仁川)条約・日朝修好条規続約に調印
1884.10.30 帝國公使館に領事館を設置 12.4 金玉均・朴泳孝ら甲申갑 신事変(竹添公使関与)
1885.4.18 日清 天津条約に調印
1889.10 咸鏡ハムギョン道で防穀令を施行
1892.11 大石正巳 公使に着任
1893.5 東学 忠清チュンチョン報恩ボウン郡で大集会開催 7月 大鳥圭介(在北京公使) 朝鮮公使を兼任
1894.3 東学 全羅チョルラ道で蜂起、5月 全州チョンジュが陥落 6月 清 陸海軍を派兵、大鳥公使着任、大日本帝國 陸海軍を派兵 7.25 日清戦争が勃発 7月 金弘集キムホンジプ 領議政に就任、諸改革を断行 10月 井上馨 公使に着任
1895.4.17 下関条約(日清講和条約)に調印 6.17 臺灣たいわん総督府を設置 9.1 三浦梧樓 公使に着任 10.8 三浦公使・岡本柳之助ら明成ミョンソン皇后を惨殺ざんさつ(乙未을 미事変、日本では閔妃ミンビ暗殺) 10.17 三浦公使を召還、小村壽太郎 公使に着任
1896.1 義兵運動起こる 2.11 館(ロシア公使館)播遷はせん
1897.2.20 高宗 ロシア公使館を出て慶運宮(現・德壽宮)に還御 10.12 朝鮮 大韓帝國に改称、高宗コジョン 大韓帝國皇帝に即位 10.20민갑완ミンカブァン 笠洞イプトン(現・서울特別市鍾路2街)で生まれる[9.25]、同じ日に李垠イウン生まれる
1899.8.17 大韓帝國 大韓國國制(憲法)を発布
1904.2.10 日露戦争が勃発 2.23 日韓議定書に調印
1905.9.5 ポーツマス条約に調印、日露戦争が終結 11.17 第2次日韓協約に調印 カブァンの叔父閔泳煥ミンヨンファン 抗議の自殺 11月 領事館を改組した韓國統監府(伊藤博文初代統監)および(現)서울・仁川・釜山・元山・鎮南浦진 남 포(平壌の外港)・木浦・馬山ほかに理事庁を設置
1906.2.9  弟の千幸チョネン 水標洞スピョドン(서울)で生れる
1907.3.14  初揀擇かんたくの儀([2.1] 德壽宮トクスグン) カブァン 皇太子妃候補に選ばれる 6月 ハーグ密使事件 8月 純宗スンジョン 大韓帝國皇帝に即位、イウン 大韓帝國皇太子に即位 12.5 イウン 日本へ連行される
1908.1.23   第2回揀擇かんたくの儀、ミン家に婚約指輪届く[07.12.20]
1909.10.26 安重根アンジュングン 伊藤博文統監を暗殺
1910.8.22  大日本帝國 大韓帝國を併合 9.10 韓國統監府を改組した朝鮮総督府(寺内正毅初代総督)を設置
1916.8.3   イウン・梨本宮方子 婚約発表
1918.1.13  イウン 一時帰国[17.12.1] 1.31 婚約破棄を迫られる[丁巳정 사17.12.18] 2.13 婚約破棄[戊午무 오18.1.3] 7.5 カブァンの祖母死去(5.27)
1919.1.4 カブァンの父 閔泳敦ミンヨンドン 死去[18.12.3] 1.21 高宗コジョン崩御ほうぎょ[18.12.18]を公表[12.20] 3.1 三一独立運動始まる
1920.4.28  イウン・方子結婚 7.22 カブァン・弟仁川インチョン港から上海へ(東亜トンヤ飯店に約3ヵ月滞在)  10月 フランス租界 宝裕里バオユリへ移転(カブァン・弟 晏摩氏アンマシスクール入学)
1924年初 カブァン 同スクールを退学し山海シャンハイ関路グヮンルへ移転
1927.5.30  イウン・方子欧州旅行、上海港で上陸せず沖合に停泊中の軍艦八雲やぐもで宿泊
1928.10.22  カブァンの母死去[9.9]
1931.9.18 満州事変が勃発
1932年 共同租界の愚園路ユユァンルへ移転
1935年 弟一時帰国し結婚([12.7] 婚姻届)
年不詳 共同租界の膠州路ジャオジョウルへ移転
1945.8.15 太平洋戦争が終結、大日本帝國が敗戦し朝鮮解放される
1946.6 カブァン・弟の家族上海を離れ帰国、서울駅前の大同テドン旅館に滞在
1947/48年 六親等の弟の家で約2年滞在
1949/50年 妹マンスンの家で数ヵ月滞在、その後 寺洞宮サドングンへ移転
1950.6.25 朝鮮戦争が勃発、清州チョンジュに疎開、その後ブサンへ移転
1953.7 朝鮮戦争の停戦協定調印される
1962.11.23『閔甲完ミンカブァン女史人生手記: 百年恨ペンニョナン』文宣閣より発行
1968.2.5 弟チョネン死去[1.7]
1968.2.18 カブァン死去[1.20]
2014.7.10『대한제국의 마지막 황태자 영친왕의 정혼녀: 민갑완 (大韓帝国最後の皇太子イウンの婚約者:ミンカブァン)』지식공작소  Communicationbooks より発行
Korea and Imperial Japan(2) もご参照ください

亡命前서울の住所

住所西暦等
笠洞イプトン1897年から98年
漢洞ハンドン1898年から1906年より後
水標洞スピョドン1906年より後(年不詳)に引っ越し

上海の住・居所

住・居所(租界)西暦カブァン動向
東亜トンヤ飯店(英)1920上海到着直後
宝裕里バオユリ(仏)1920-24晏摩氏アンマシスクール通学
山海シャンハイ関路グヮンル(英)1924-32外出を自制
愚園路ユユァンル(共同)1932–膠州路ジャオジョウル移転まで
膠州路ジャオジョウル(共同)–1946上海を離れるまで

帰国後の住・居所

住・居所等時期・行政區等
서울駅前の大同テドン旅館1946年6月から1-2年
六親等の弟の家離れ約2年(1947/48-1949/50)
妹マンスンの家数ヵ月(推定 1949/50)
寺洞宮     朝鮮戦争勃発時の住居
清州チョンジュ        朝鮮戦争中の疎開先
東萊トンネ温泉洞オンチョンドン    ブサン市東莱トンネ區内
長箭洞チャンソンドン      ブサン市 金井クムジョン區内

参考: 서울<京城<漢城<漢陽

首都読み国名・情勢・西暦等
서울seoul大韓民国
1946-
京城keijo大韓國(大日本帝國が併合)
1910-1945
漢城한성朝鮮、大韓國・大韓帝國
1392-1910
漢陽
開京
한양
개경
高麗(古代三國*を統一)
*新羅・後高句麗・後百濟
918-1392

암마시스쿨 In search of old Shanghai

15年前、僕は何かに追い立てられるように민갑완ミンカブァン(閔甲完 1897-1968)に関わる写真や資料を集めていた。上海語の個人授業も受けた。羽田から上海虹橋ホンチャオ空港に飛んだのは2007年4月20日だった。同年12月と09年8月にも上海を訪ねている。カブァンの上海亡命中の暮らしについて確認したいことがいくつかあったからだ。木之内誠編著『上海歴史ガイドブック』(大修館書店 1999年)を片手に上海市内を徘徊はいかいした。

1920年7月に仁川インチョンを出港したカブァンと弟は上海に到着してから約3ヵ月を東亜トンヤー飯店というホテルで過ごした。そのホテルは現在も南京路ナンチンルーに面して建ち、往年の姿を留めている。そこに韓国臨時政府の김규식キムギュシク(金奎植 1881-1950)が訪ねて来る。同年10月、彼の采配さいはいでカブァンと弟は암마시스쿨アムマシスクールに入学するのだが、彼らが長期滞在したホテルかどんなところだったのか、アムマシスクールというのがどこにあってどんな学校だったのか、よくわからなかった。

翻訳原稿を読み返しても何らの風景も浮かんでこない。このばくとした曖昧あいまいさが僕を苛立いらだたせあせらせていた。上海の当時の地図と「歴史ガイドブック」を頼りにほとんど無計画のまま上海に行き、少しずつ画像化していったのだ。このとき、翻訳編集は新たな段階に入っていたと思う。単なる字面じづらの翻訳では納得できなかったのだ。彼女をほかにも大勢いたであろう日韓史の犠牲者の一人として伝えても無意味だと思うようになった。

カブァンという女性について、韓国でも日本でもほとんどの人は知らないし、たとい知ったとしても関心を示さない。たまたま関心を抱き、自伝の翻訳を通して多くを知り得た者として、それを一人でも多くの人に伝えたいのだが、いまだにその方法を考えあぐねている。

以下、カブァン自伝より上海に亡命した直後のようすを伝える部分(仮訳)を紹介する。くり返し読みセリー校長の顔写真を見ていると、この人はこんな眼でじっとカブァンと弟を見つめたのだろうと思う。慈愛じあいに満ちた表情で彼らをあたたかく見守ってくれたに違いない、などと思う。

金奎植キムギュシク博士の言葉は、泣きながら過ごしてきた私に警鐘けいしょうを鳴らしてくれました。博士にお会いした3日後、私とチョネンは博士の紹介で学校に行きました。晏摩氏アンマシスクール[1]というアメリカ人女性セリー校長[2]が経営する大きな学校で初中等教育課程を持っていました。ピアノが12台もある音楽室があり、大きな図書館もありました。
キム博士が「韓国の愛国烈士れっしの子女」が亡命してきたと伝えていました。校長は私たちを丁重ていちょうに迎えいれ、中国語の個人指導教師まで手配してくれました。
私は中等部に入り、チョネンは初等部に入って学ぶことになりました。ただ、しばらくはまるで案山子かかしのように、他の生徒が教室に入れば入り、出るとあとについて出る、それしかできませんでした。
中国語の個人指導はとても効果的でした。他のことはともかく、知らない国で暮らしていて言葉が通じない苦しみほどつらいことはありません。生まれ落ちたときからの聾唖者ろうあしゃでもない私があらゆることに目つきと手ぶりで応じるのですから、本当に気が滅入めいりました。
韓国にいたときも、中国行きが決まってからひそかに中国人を奥の部屋に呼んで3-4ヵ月教えてもらいましたが、使おうとしても思うように言葉が出てきません。個人指導をしていただくのも主に筆談ひつだんでした。文字に書いて音を習ったのです。
いつしか冬も過ぎ、春が来ました。私の上海もかなり上達し、簡単な言葉なら話すことができるようになりました。時間があるときは中国の怪談の本を読んだり、お手伝いさんと話したりしました。
叔父がバス会社のマネージャーだったので、3ヵ月のホテル生活を切り上げ家を借りて暮らすことができました。フランス租界の保裕里ポユリにある質素な家で、二人の叔父と叔母にチョネンと私の5人で暮らしました。言葉がよく通じないからとお手伝いさんを置いたのですが、今ではかなり言葉も通じるようになりました。
ある日、人をかいして韓国から便りが届きました。上海に到着してからも、ときどき手紙だけはやり取りしていたのです。これまでは私たちに心配をかけまいと、安否あんぴを尋ねる簡単なものでした。ところが、今回の手紙で家がたいへんな状態にあることを知らされました。
私たちが上海に渡って3ヵ月過ぎてから刑事たちが次々と家に訪ねてきたそうです。「娘をどこに隠したんだ」「早く手紙を出して呼び戻せ」などと叫び、ありとあらゆる狡猾こうかつ脅迫きょうはくをしたといいます。さらに、母方ははかたの祖父と母を交替で投獄して苦しめたというのです。母は私のことで、祖父は叔父たちのことで、このような目にったのでした。
[1] Eliza Yates School、1940年(中華民國曆29年)発行、許晩成編「上海學校調査錄」(Directory of Schools and Institutions in Shanghai)には「晏摩氏女中、外灘7號大廈4樓、應美瑛校長、敎會立」「卽前省立松江中學(松江高級中學、靜安寺路591弄141號)」とある
[2] Miss Hannah Fair Sallee [写真] 1915-25年校長