「ハングルの誕生」平凡社ライブラリーに

10年余り前に出版された『ハングルの誕生』(野間秀樹著、平凡社新書版)が平凡社ライブラリーから『新版ハングルの誕生』として出版された。副題も新書版の「(おん)から文字を創る」から「人間にとって文字とは何か」に変わった。

10年を経てライブラリーに入る、すごいことだと素直に思う。以前、僕の処女作を読んでいただき、ほめてくださったが、こちらは一向に読者が増えない。著者がほめるということは、僕の文章は難解なのか、と考えていた。

そういえば、新書版の原稿を読ませてもらったときも、「難しい」などと勝手なことを言ってしまった。何年もお会いしていないが、再会したら「還暦を過ぎて文章がやさしくなりましたね」と言うつもりだ。

ライブラリー版と新書版を比較すると、「あとがき」がずいぶん異なる。故人名が連ねられていて年齢を感じさせるからかもしれない。新書版にない序文は、以前より文章が読みやすい。ライブラリー版は改稿した部分も多いという。もう一度読み直してみようと思う。

頭脳流出と同調圧力

真鍋叔郎博士(1931-)がノーベル物理学賞を受賞するや、日本のメディアはこぞって日本人のノーベル賞受賞として大きな見出しで扱った。そして、日本人の「頭脳流出」問題を指摘する。

だが、待てよ、「頭脳流出」って何だろう。日本人の優秀な研究者等が日本から海外に出ていくのをいうが、なぜそれを嘆かなくてはいけないのだろう。世界に出て行ったのだから、その分野における世界貢献だと考えられないのだろうか。

真鍋博士の場合は米国籍を取得している。その理由の一つとして「社会に同調する能力が欠けている」と言ったそうだ。彼の修論に注目した米国の研究者たちがすごいと思うが、彼らはもしかしたら日本の研究環境の窮屈さや不自由さをよく理解しているのかもしれない。

まったく関係ないように思われるだろうが、雅子皇后の適応障害や眞子内親王のPTSDも同調圧力によるところが大きいのではないか。日本のなかでも皇室はとくにその圧力が大きいと想像するからである。

「縦書き文庫」という試み

2021年7月に縦書き文庫に出会った。誰でも簡単に創作小説等を投稿することができるサイトだ。運営者が開発した組版エンジンを2005年から無償で提供している。「小説とブラウザの新しい関係を模索するウェブサービス」と銘打ち、読者のページ送りにもとづく評価を採用している。その趣旨に共感し何作か投稿している

縦書き文庫の魅力は利用者が登録さえすれば、その組版エンジンを無料で利用できることであり、操作が簡単で使いやすく電子書籍リーダーがなくてもスマホやPCで利用できることだ。文学作品を無償で提供する青空文庫の作品を縦書きにして投稿作品とともに載せることで掲載作品の内容と時代を広げている。

縦書き文庫という新たなサイトの動向に大いに期待したい。既存の出版業界にはない可能性がここにあると思うからだ。下の写真は1934年に発見された宮澤賢治(1896-1933)の遺稿となった手帳の一ページ、縦書き文庫とはとくに関係ないが、タテガキの一例として載せた。

(c) t.livepocket.jp 1931.11.03 Miyazawa Kenji

「むらぎもの八戸歳々時記」とは

このブログは青森県八戸(はちのへ)市に住む「八戸歳々時記(さいさいじき)」の筆者が2012年末に投稿を始め、16年晩夏から  Facebook に投稿した記事を、筆者の了解を得て転載編集しています。筆者とは1年以上音信がとだえていましたが、21年10月初旬にFB messengerでつながりました。

記事は以下の分類に分けられ、筆者の日常生活から政治・社会批判まで多岐に及んでいます。2020年までに投稿された記事数が20を超える分類と雑題などは次のとおりです。下に編集者の好む筆者の写真約50枚を選びました。ほかにもいい写真が多くあります。

  1. 夢来里(むらさと)
  2. 今日(きょう)の歳時記
  3. 零(こぼ)れ話
  4. 壱里如(ヒトリゴト)
  5. 周(まわ)りの花木
  6. 雑題
  7. 写真イラスト

Oguri Tadamasa 1827-1868

小栗忠順に関心を抱いたのは最近のことで、以前は歌舞伎の小栗判官ぐらいの知識しかなかった。小説「福澤諭吉」(岳真也著)を読み、徳川幕府の幕僚として福澤諭吉や勝海舟とともに咸臨丸に乗り、ワシントンで米国政府と交渉し、後に横須賀造船所を設立したこと、勝海舟と対立関係にあって、福澤が彼を慕っていたことなどを知った。

明治政府軍との徹底抗戦を主張した小栗が、勝海舟や西郷隆盛の主導した<無血開城>への時流のなかで、いわば当時の政界を去って帰農したにもかかわらず、斬首刑に処せられたと知り、その理不尽さに憤り急に親近感を抱いたのである。というより、一方的な明治史観を押し付けられることに強い違和感を覚えた。同姓という親しみもなくはないが、まったくの偶然である。

Quoted from the first chapter of “the Meiji Restoration Losers” written by Michael Wert (Harvard East Asian Monograph 358).

On the morning of the sixth day of the fourth intercalary month in 1868, imperial troops escorted Oguri Tadamasa from his temporary imprisonment to the banks of the Karasu River in Mizunuma Village. Typically, capital punishment for a high-ranking samurai, especially a direct vassal of the shogun, involved ritual gesture of suicide before an executioner’s coup de grace. That day, however, Oguri was forced to bend over, hands tied behind his back.

Besides calling the man who dared push his body forward with his feet a “disrespectful lout,” Oguri’s final words were a request to let his wife, daughter-in-law, and mother go free. A low-ranking samurai struck Oguri’s neck not once but three times before his head dropped unceremoniously into a pit. A villager who witnessed the execution as a boy recalled, “What was most impressive in my mind was how white the soles of his tabi appeared when the body fell forward.”

This scene weighs on Oguri’s commemoration, coloring explanations of his career up to the moment. It marks the origin of his commemoration both geographically, as ground zero for the historical memory about him, and temporally–almost immediately after his execution, former colleagues became his first apologists, protecting his legacy in death though they could not help him in life. The goal of this chapter is to impart a historical understanding of Oguri and clarify why memory activists and supporters found him a compelling figure worthy of appropriation.

小説の冒頭のように鮮やかな光景が浮かぶ。著者のいう memory landscape (仮に「記憶の風景」と訳しておく)の一端がこれか、と思わせる書き出しである。

JBpress 佐藤優氏インタビュー記事

[以下 JBpress の記事より転載しました。下線ほか編集]

作家・佐藤優が読み解く、菅首相がじんわりと怖いのはなぜか

緊急事態宣言とオリンピック開催が両立する菅首相の頭の中の論理 2021.7.9 (金) 長野 光follow

「民主主義の消費期限はもう切れているのかもしれない」と話すのは作家で元外務省主任分析官の佐藤優(さとう・まさる)氏だ。コロナの封じ込めに成功した中国を見て、非常事態への対応には非民主な体制の方が強いのではないかと多くの人が不安を抱いた。民主主義が崩壊し、独裁のような形に変わっていくほど、私たちの社会や経済は追い詰められた状況にあるのだろうか。

ウラジーミル・プーチン、習近平、ドナルド・トランプ、金正恩など11人の独裁者を解説する『悪の処世術』(宝島社新書) を上梓した佐藤氏に話を聞いた。(聞き手:長野光 シード・プランニング研究員)

(※記事の最後に佐藤優氏の動画インタビューが掲載されているので是非ご覧ください)

恐怖政治の仕組みを上手く作ったプーチン大統領

──数々の政敵や反体制派をむごたらしく葬ってきたロシアのプーチン大統領こそ、現代の危険な独裁者というイメージにぴったりといった印象を受けます。プーチン大統領の人間性について教えてください。

佐藤優氏(以下、佐藤):反体制派に毒を飲ませたり、記者を殺したりしてもプーチンに得はありません。ロシアは直接選挙ですし、ロシア国民は知的水準も高い。そんな乱暴なことをしたら大統領に当選できません。「プーチンはバカだ」というプーチン観がありますが、そこまでバカな奴が20年以上も権力を握れるはずもない。

 一度、「ロシアは怖い」という価値判断を外してロシアを見てみたら面白いですよ。国会議事堂に乱入して銃乱射するような国が民主主義国だと本当に言えますか。ロシアだってロシアなりの基準で民主主義国なんです。

ウラジーミル・プーチンの大戦略』(2021年7月発売予定、東京堂出版)の著者、アレクサンドル・カザコフは僕のモスクワ大学の同級生で、プーチンの側近グループの一人です。

 この本ではデモクラシー(民主主義)が機能しなくなって、今の世界のトレンドはフォビアクラシー(phobiacracy、恐怖政治)だと言っている。プーチンは恐怖政治の仕組みを上手に作っています。忖度の構造を作るのが上手い。そして、日本にもフォビアクラシーがあります。

──日本の今の政権に恐怖政治の要素が見られるということですか。

佐藤:菅さん(菅義偉首相)はかなり怖い。彼がやっているのは、完全にフォビアクラシー(恐怖政治)です。少しでも反発する者が出てきたらバサッと切りますから。あれだけ頼りにしている尾身さん(新型コロナウイルス感染症対策分科会・尾身茂会長)だって、近々切られる可能性が十分あると思う。

菅首相がオリンピックに固執する論理

佐藤:オリンピックをやめたら自分の政権が潰れる。だから権力に固執していると考えると菅さんという人を読み違える。オリンピックをやれば感染者が増え、世界の変異株がたくさん入って来るなんてことは彼も百も承知でしょう。

 菅さんはこのコロナの中権力に空白が生じることで政治や経済に混乱が生じないように自分がやり続けることが唯一の選択肢だと信じている。そして、安定か混乱かどちらを取るかと考えた場合に混乱を避けるためにはオリンピックに突入せざるを得ないから苦渋の選択をする、と。

政治は究極の人知を超えた世界にあります。ヒトラーだって、最初から独裁者になると思っていなかった。最初は国民に選ばれた、と思う。その次に神様に選ばれた、と思うようになる。菅さんも神がかり的なところがあると思う。本人でさえ総理大臣になると思っていなかったんだから。今、このコロナ禍の日本で首相をやっているのは自分の天命だと思っていると思う。

彼は究極の現実主義者ですよ。河井克行(元法相)や河井案里(元参院議員)は、ガネーシャの会で菅さんの応援団だった人です。菅原一秀(前経済産業相)や吉川貴盛(元農相)、自分に近かった総務官僚、自分の息子も誰も守らない。単に冷たいというレベルではなく、「混乱を避けるために、申し訳ないけど事実だったらしょうがない、責任を取ってもらうしかない」という思想で切り捨てる。これは官僚や政治家としては怖いですよ。

──「ルールを破ったら仲間であろうと容赦しない」という姿勢は、国民の側からすると公正なもので悪くないようにも思えますが。

佐藤:そう思います。コロナの予防接種も思うように進んでいないし、オリンピック開催の不安もあるにも関わらず、菅政権の支持率は30%ある。これはかなり高い。

 混乱への恐れ、そういう感覚は国民の中でかなり強いと思います。今の政権が素晴らしいとは思わなくても、安定か混乱かだったら国民は安定を選択する。ただ、この安定か混乱かという選択は、ともすれば独裁を是認する方向に行きかねません。

もう一人の“独裁者”、習近平はどう見る?

──長い一人っ子政策の末、人口動態がいびつになった中国。成長が難しくなり、社会や経済の問題に政治が対処できなくなる時、次に民衆の心の拠り所になる可能性として宗教を想定している習近平は、先回りしてキリスト教をはじめ、外国の宗教を体制内部に取り込もうと目論んでいる、と書かれています。習近平政権は自分たちの作り上げたカルチャーが、宗教によって変容される可能性を恐れないのでしょうか。

佐藤:そもそも共産党体制自体に、理想的な社会を作っていこうという宗教的な要素があります。今までのようなマルクス・レーニン主義や毛沢東思想によって体制を維持できなくなったら、帝国を維持するために民心を安定させる宗教を取り込もうとするのは必然です。

 でも、中国国内の地下教会や法輪功、「イスラム国」(IS) 等は、極端に政治化して共産党体制とぶつかるから困る。矛盾せずに並存できる宗教といえば、カトリック教会です。

カトリック教会は、旧東欧の共産圏とも中南米の独裁政権とも上手くやってきました。今はまだ司教の任命権の問題があり、バチカンと手を握れていませんが、共産党体制に反発せずに社会問題を処理するという点ではカトリックが魅力的です。

 それから、創価学会(創価学会インターナショナル)の活動も同時に公認することになるでしょう。創価学会は、日本では戦時中、軍部と対立していましたが、今は自公政権の中で与党化しています。中国共産党政権の中で与党化することも可能ですよ。

──日本では創価学会は公明党を持っています。創価学会を大々的に取り入れる場合、中国政府は政治に関与してくる可能性を懸念するのではないでしょうか。

佐藤:そうは思いません。一国二制度の下で、香港とマカオでは創価学会インターナショナルの活動は認められています。それから、中国の各大学には池田思想研究所があります。創価学会が政治活動をしているのは日本だけで、世界百数十ヵ国の創価学会インターナショナルは政治活動をしていません政治との関係においては折り合いをつけやすい教団なんです。

トランプが勝ちを想定した民主主義のゲーム

──「私は低学歴の人たちが好きだ」と言い放ったトランプ大統領は、下品さを見せびらかすことで、大衆にこいつは気取っていないと思わせて引きつけた。トランプの強さは支持者がカルト化したところにある、と記されています。なぜ米国人は理想主義者のサンダース氏より、ヒールレスラーのトランプ氏をより熱狂的に求めたのでしょうか。

佐藤:政治は論理だけではなく感情で動きます。トランプは安定した支持者さえ掴んでいればこのゲームに勝てると計算していた。最後まで選挙結果を認めなかったことも、次の大統領選挙を考えれば正しいやり方です。

 民主党はトランプの逆打ちばかりしています。イランで対話を再開し、イエメンのフーシ派のテロ組織指定を撤回し、アフガニスタンからの米軍撤退に関しては政策がぶれました。

もっとも、アフガニスタンから米軍が撤退しても、米国の民間戦争会社が国際機関や米国企業を防衛しています。軍服からガードマンの服に変えているだけで、本質的な違いはありません。

──トランプには政治家になって実現したい具体的な事柄が存在しない。「アメリカファースト」はそのような国づくりを理想としているのではなく、自己表現の一つに過ぎない、と書かれています。政治をエンターテイメントにできるのが不真面目な政治家の強みだと思いますが、これは危険なことでしょうか。

佐藤:危険だけど止められない。ウクライナのゼレンスキー大統領は元コメディアンです。「大統領」というテレビドラマに出たら大ヒットして、その勢いで大統領になっちゃった。プロレスみたいになってるんですよ、民主主義って。

 そうなると民主主義以外の選択肢、恐怖政治の方が国民は幸せなんじゃないか。そういう発想も出てくる。

──民主主義が崩壊して独裁のような形に変わっていくほど、現在は追い詰められた状況だということでしょうか。

今後生まれてくる社会主義でも共産主義でもない体制

佐藤:中国はコロナを封じ込めることに成功している。この意味は相当に大きい。民主主義の消費期限が切れているのかもしれない。でも社会主義は、ソビエト型の社会主義の負の遺産のせいで無理です。そうすると、恐らく出てくるのは一種のファシズムでしょう。国家の暴力を背景にして、雇用を確保して、経済的な再分配をしていくという思想です。

──コミュニズムを装ったような形で、ということですか。

佐藤:利潤を追求する起業家精神は尊重するという点では、コミュニズムとは違います。経済は統制しないで競争はやらせる。でも、競争の成果物は取り上げて、貧しい人々に再分配する、というやり方です。中国は比較的近いと思いますが、共産主義という看板を掲げなくなると思います。

日本で言うとまず、年収3000万円くらいまでの人はいてもいい。でも、年間10億円、20億円稼ぐ奴からは全部召し上げて資産に課税する。消費税はがーんと上げる。それを原資として再分配し、最低700~800万円の世帯収入は皆に保証する、というイメージです。

──米国のような超富裕層の少ない日本では、資産家に大きく課税するという考え方は都合がいいと考える人は少なくないかもしれないですね。

佐藤:今のところは事実上、MMT(現代貨幣理論)で世の中が動いてしまっているわけでしょう。いくら国債売っても大丈夫なんだ、と。あれは絨毯にガソリンを撒いているようなものです。すぐに火はつかないけど、朝鮮半島や台湾海峡の有事等、国際情勢によって一気に火がついて極端なハイパーインフレになります。

その時、MMTだと、増税で対応するということになっているけど、そんなことが短期間でできるのか。そうなると、リバタリアン(自由主義)的な発想じゃなくて国家が乗り出してくると僕は思う。

──金正恩には求愛を恫喝で示すという独特な表現様式がある、と書かれています。当たり屋のようにトラブルを持ち込み、恫喝し困った相手を交渉の場に引きずり出して、注文をつけて相手が少しでも譲歩したら儲けもの、というあの質の悪いやり口を金正恩総書記はどこから学んだのでしょうか。

「北朝鮮の人々は今の北朝鮮にそこそこ満足している」

佐藤: 金日成や金正日の時には北朝鮮から輸出するものもあったし、第三世界の支援もしていた。金日成の主体思想に惹かれる人もそれなりにいました。金正日の時はリビアにトンネルを掘っていたし、土木工事なんかで儲けていたんです。

 ところが、国連の制裁が加わって、だんだんそういうことができなくなって、ハッキングして仮想通貨を盗むとか犯罪国家的になっていった。ある意味、北朝鮮に対する制裁が効いてるんですよね。

 ただし、核兵器を持っているから、迂闊なことはできない。北朝鮮は自分の身を守るために、核兵器が米国に到達するような形にしておかないといけない、と思い込んでいます。特に、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の多弾頭化に成功すれば、北朝鮮の安全は保障されるということになります。

 北朝鮮は貧乏ですが、朝鮮戦争直後に比べて人口が増えているし、1990年代後半に多くの餓死者を出した「苦難の行軍」の時期と比べても豊かになっています。

 北朝鮮のキャリアパスでは平壌に住むのが頂点だし、農村から地方の中核都市に移ることによって人の移動がある。それを目指して頑張るから、あの体制内でも、みんなそれなりに幸せにやっています。閉ざされた環境の中で、たとえ低い生活水準でも人々はそれを甘受して、そこそこの幸せを感じる、ということは十分あるんです。

──「私が20世紀の独裁者の中で最も興味を持っているのが、アルバニアに君臨したエンベル・ホッジャである」と本書で書かれています。日本で一般的に語られる国際政治の主要な人物の中では比較的マイナーな存在ですが、なぜこの独裁者に格別の興味を示されるのでしょうか。

佐藤:政治家にとって一番重要なことは、国民を飢えさせず食べさせることです。アルバニアは荒れた土地の小国なのに、エンベル・ホッジャは自力でちゃんと生き残って国民を食わせることができた。大したものです。しかも、ソ連や中国と喧嘩しながら衛星国にならず、バランスを取っていた。本来だったらユーゴスラビアに吸収されてしまうような小さい国ですからね。

──エンベル・ホッジャが尊敬していたのは、鉄の規律で民衆を徹底的に押さえつけ、平等な世界を実現しようとしたソ連の独裁者ヨシフ・スターリンでした。アルバニアもロシアもその後、破滅的な辛い時代に突入しますが、それは過度な理想主義者に無理に矯正された反動でバランスを崩して転倒した結果のように見受けます。完璧な世界の実現を目指す真面目すぎる政治家もまた、ならず者以上に危険な存在なのでしょうか。

究極の自己責任社会だった旧ソ連

佐藤:理想で世の中を動かそうとしても短期間しか動かない。最後は恐怖で動かすしかないし、理想的な社会を作るには恐怖政治になる。ただ、恐怖政治だとしても、その仕組みが機能している限りにおいては長期間続くんです。

 ソ連はある意味で、非常にいい社会でした。共産主義の理想である「労働時間の短縮」が実現されていました。1日3時間くらいしか働かない。土日は2回休むし、夏休みは2ヵ月ある。クーポン券が労働組合から配られるから、夏の間はリゾートホテルでみんな遊んでいたんです。

──生活が安定して様々なものが享受できたとしても、人々は精神的に幸せにはなれないのでしょうか。

佐藤:旧ソ連はそれなりに幸せだったんです。住宅はタダで分けてくれる仕組みがあって、普通の労働者は別荘を持っていた。郊外のログハウスに10人くらいで集まって、手作りの料理を持ち寄って飲んで・・・。全然悪くない、楽しい生活ですよ。

 別荘に集まってタイプライターで詩や作品を作ることもありました。どんな反体制文書でも、製本して20部作って配るくらいは全然問題ない。日本の学術論文の読者だって、実際は3人くらいでしょう。知的な活動をしている人は、20部程度発行できれば満足ですよ。

一人の人が一生の間に知り合える人は150人で、人事評価をきちんとできる人数は8人だと言われています。人というのは10人、15人の人がいればわりと満足なんです。今の日本の場合、10人、15人の友達に会いたいと言っても難しいでしょう。仕事で都合つかないとか、収入に余裕がなくてカツカツだとか。

──競争志向型の人は、ソ連時代はどうしていたのでしょうか。

佐藤:ソ連のエリートはハイリスク・ローリターンだったんです。腐っていない卵を買えるくらいの特権しかなかったんです。国家の指導的な立場になっても、政争に巻き込まれてシベリア送りや刑務所送りになるリスクがあった。でも、そこそこの生活でよければ政争に巻き込まれることはない。

しかし、人々はミネラルウォーターやビールを飲む時は、光にかざしてチェックする必要がありました。品質管理がないから、ネズミのうんこが入っている可能性がある。それを飲んで腹を壊しても自己責任、だからみんな一生懸命に目を凝らしていた。究極の自己責任社会だったんです。

今の自由民主主義を守るには

──不安が多い社会では、強くて賢くて大いなる何かに導かれたいという願望が人々の間で高まりやすくなる。民主主義による意思決定のシステムが面倒に思えてくる。民主主義のシステムの綻びが大きくなり始めた今、20世紀の妖怪たちが息を吹き返そうとしている、と本書の冒頭で書かれています。この底流にある問題意識を教えてください。

佐藤:私は自由民主主義を守りたいと思う。

自由になると格差がつきすぎるけど、平等にすると競争がなくなって息苦しくなる。自由民主主義というのは、異なるベクトルの間で折り合いをつけていきます。その折り合いをつける基準は、フランス革命の自由、平等、友愛というスローガンの友愛ではないか。

では、その友愛はどう作られるのか。率直に意見を交わして、信頼が積み重なっていくと、その信頼関係がある人たちの間では、折り合いがつけられる。そういうネットワークを、自分の手が触れられるチャンスがある時に作る努力を怠らないこと、それが大事だと思う。(構成:添田愛沙)

無宗教派が支配する社会

国家神道に対する反動からか「無宗教」であることがよしとされ普通とされた戦後の日本社会において、神社での祈祷は「信仰」とは違うものとされ、正月にはみな神社にお参りするまた、葬儀や法事には僧侶に読経(どきょう)してもらい念仏を唱えることが、死者に対する(とむら)いであり儀礼だとみなされた。いずれも「信仰」とは異なるものとして扱われた。

何かを「信じる」者は無知愚昧(ぐまい)のやからとされ、「宗教」にすがる者は弱者としてうとんじられる。だから、「信仰」を説き、宗教団体に勧誘する者はうさん臭いものとみなされる。長いあいだ「宗教」について考えることを禁止された人々は、何も信じられなくなっていた。神も仏もこりごり、宗教など無用の長物と考えていた。それが普通のことと考え、誰も疑おうとはしなかった。

彼女はなぜ「学会員」になったのか

1959年4月、31歳の彼女は創価学会に入会した。当時、人々はその会を「学会」と呼び、会員を「学会員」と呼んできらった。「無宗教」が普通とされる戦後の日本社会において、「信仰」を持つ人々は敬遠された。その状況はいまも続いている。

そんな風潮のなか「学会員」となることは、「宗教」を持つと同時に人々が習俗として取り込んできた既存の神仏しんぶつを否定することを意味した。1950年代後半から60年代にかけて「学会」が全国的に展開した折伏しゃくぶくという名の布教活動に人々は戸惑い反発した。その宗教運動が他の宗派と宗教を邪宗じゃしゅうとし、家々にあったかみふだを破棄したからだ。そんな手法が人々の反感を買い、世間から「病人と貧乏人の集団」としてさげすまれ排斥はいせきされた。

なぜ彼女は「学会員」になったのか。周囲の人々にうとんじられ、夫に嫌われてまでして、なぜ「学会」にこだわったのか。「学会員」になることが彼女にいかなる変化をもたらし、夫の内面にどんな変化を引き起こすのか、少年の生き方にどう影響するのか、予想などしなかったろう。三十代初めの彼女自身、必死だったろうから。「学会員」となった彼女の生涯、少年の目に映った一人の女性の生きざまを描かなければならない、と思う。

人々がスマホを身体の一部のように扱い、インターネットでつながれた現在も同じ状態が続いていると言ったら、筆者は変人扱いされるだろう。でも言わなければならない。ンヴィーニたち

2021-2030

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