関連年表:(下線は陰暦)
- 1895年10月8日 明成皇后(閔妃、1851年10月19日生)暗殺される
- 1897年 10月12日 朝鮮王朝、大韓帝国に改称、高宗大韓帝国皇帝に即位;
- 同年10月20日 ミン・カブァン、ソウル・イプ洞で生まれる(9月25日)、同じ日に李垠生まれる
- 1904年 2月10日 日露戦争勃発する
- 1904年 2月23日 日韓議定書、調印される
- 1905年 9月5日 ポーツマス条約調印、日露戦争終結
- 1905年 11月17日 第2次日韓協約調印、カブァンの叔父、閔泳煥、抗議の自殺
- 1906年 2月9日 弟の千幸、ソウル・スピョ[水標]洞27番地で生まれる
- 1907年 3月14日 初揀擇の儀(2月1日、徳寿宮)、カブァン皇太子妃候補に選ばれる;
- 同年6月 ハーグ密使事件;同年8月 純宗、大韓帝国皇帝に即位、イ・ウン皇太子に即位;
- 同年12月5日 イ・ウン日本へ連行される
- 1908年 1月23日 第2回揀擇の儀、婚約指輪が閔家に届けられる(1907年12月20日)
- 1909年 10月26日 安重根、伊藤博文を暗殺
- 1910年 8月22日 「日韓併合条約」調印
- 1916年 8月3日 イ・ウンと梨本宮方子の婚約、日本の新聞に発表
- 1918年 1月13日 イ・ウン、韓国に一時帰国する(1917年12月1日);
- 同年1月31日 カブァン、イ・ウンとの婚約破棄を迫られる(1917[丁巳]年12月18日);
- 同年2月13日 カブァンとイ・ウンの婚約、破棄される(1918[戊午]年1月3日);
- 同年7月5日 カブァンの祖母、死去(5月27日)
- 1919年1月4日 カブァンの父閔泳敦、死去(1918年12月3日);
- 同年1月21日 高宗(李太王)の崩御(1918年12月18日)公表される(12月20日);
- 同年3月1日 三一独立運動始まる
- 1920年 4月28日 イ・ウンと梨本宮方子、結婚する;
- 同年7月22日 カブァン、弟のチョネンを連れ仁川を出航、上海に亡命する、東亜飯店(南京東路に面したホテル)に約3ヵ月滞在する;
- 同年10月 フランス租界宝裕里に引っ越す、カブァンとチョネン、晏摩氏スクールに入学。カブァン、3年余り在籍
- 1924年初め カブァン、日本の官憲の追跡を恐れ同校を退学、山海関路に移る
- 1927年5月30日 イ・ウンと方子、ヨーロッパ旅行の途次、上海港沖で軍艦「八雲」に停泊
- 1928年10月22日 カブァンの母、死去(9月9日)
- 1931年 9月18日 満州事変、万宝山事件勃発
- 1932年 共同租界愚園路に移転
- 1935年 チョネン、結婚のため一時帰国(12月7日に婚姻の届出)
- 年不詳 共同租界膠州路に移る
- 1945年 8月15日 太平洋戦争終結、朝鮮解放される
- 1946年 6月 カブァンとチョネンの家族、祖国に帰国する、ソウル駅前の大同旅館に滞在
- 1947/48年 六親等の弟の家の離れに移り、約2年滞在
- 1949/50年 妹マンスンの家に移り、数ヵ月滞在、寺洞宮に移動
- 1950年 6月25日 朝鮮戦争勃発、清州に疎開、カブァンとチョネンの家族、プサンに移る
- 1953年 7月 朝鮮戦争、停戦協定に調印
- 1962年 10月 『百年恨』出版される
- 1968年2月5日 チョネン、死去(1月7日)
- 1968年 2月18日 カブァン、死去(1月20日)
- 2014年6月18日『대한제국의 마지막 황태자 영친왕의 정혼녀*』(지식공작소 Communicationbooks)より発行される、*基本テキスト『百年恨』
ソウルでの住まい
- イプトン[笠洞] 1897年から1898年
- ハンドン[漢洞] 1898年から1906年以後
- スピョドン[水標洞] チョネンが生まれた年(1906)の後(年不詳)に引っ越し
上海での住まい
- 東亜飯店 1920年8月から3ヵ月滞在
- 宝裕里(フランス租界)1920-24年、カブァンのアンマシ・スクール退学まで
- 山海関路(イギリス租界) 1924-32年、この時期から外出できない生活
- 愚園路(共同租界) 1932年から膠州路に引っ越すまで
- 膠州路(共同租界) 1946年6月の帰国まで
帰国後の住まい
- ソウル駅前の大同旅館 1946年6月から数十ヵ月(?)
- 六親等の弟の家の離れ 約2年間(1947/48-1949/50年)
- 妹マンスンの家 数ヵ月(推定、1949/50年)
- 寺洞宮 朝鮮戦争の勃発(1950年6月)当時、ここに住んでいた
- 清州 朝鮮戦争中、疎開していた
- 東萊温泉洞 プサン市東莱区
- 長箭洞 プサン市金井区