Tsai Ingwen’s autobiography

蔡英文(Cài Yīngwén 1956-)の自伝を読んだ。原著「洋蔥炒蛋到小英便當―蔡英文的人生滋味」は、2012年総統選の前年2011年に出版され、日本語訳は白水社が2017年2月に出版している。

彼女の処女作『蔡英文:新時代の台湾へ』を同じく白水社が2016年5月に出版している(原著「英派: 點亮台灣的這一哩路」)。以前から彼女に注目していたが、今回ようやく自伝を読んだ。きっかけは、最近にわかに露骨になってきた中国大陸の台湾に対する外交攻勢である。

2016年総統選のさなかに書かれたTime の記事が蔡英文と台湾の置かれた立場を良くまとめている。‘Reunification Is a Decision to Be Made By the People Here:’ Breakfast With Taiwan’s Tsai Ing-Wen  Emily Rauhala / Taipei Jun 18, 2015

第5章「民進党を再び立て直す」の民進党の党主席選挙への立候補を決意するに至る記述のなかに彼女の人となりと思考方法がにじみ出ているように思う。日本に彼女のような政治家がいたら、と思う。と同時に、蔡英文を育てた台湾社会と台湾人の底力を思う、すごい人たちだ。

少し長いが、以下に該当部分を引用する。

…私が2004年に民進党に入ったのは、民進党の価値観に共鳴したからだ。だから、ここで重要なことは、私がこの党を愛しているか、責任感があるか、自分を台湾に捧げることができるかどうか、などといったことではなかった。それは疑う余地もなかった。

私の考えは一つの問題に集中していた。移行期の台湾は、中国大陸の脅威とグローバリゼーションの挑戦に正面から立ち向かわなくてはならない。その中で、民進党はどのような役割を果たすことができるのか

アジアの急速に変わりゆく政局の中で、この政党は台湾をどのように支えることができるのか。さらに重要なのは、人々からの信任が危機的状況にあるこの政党が、人民が期待する方向へ台湾を導くことができるのか。…再三考えた末に、私は長年待ち望んでいたのんびりとした生活に思いを馳せた。そして、断ることにした。

しかし、ある日、食事をすませてソファでリラックスしながら韓国ドラマを見ていたところに、アシスタントが電話をかけてきて、私にすぐオフィスに来るように言った。李遠哲(Lĭ Yuănzhé 1936-)が会いに来るというのだ。

韓国ドラマを見ている途中で外出などしたくなかった。しかし、李遠哲は私が尊敬する先輩だ。彼が何の用事もなくオフィスに来るわけがない。仕方なくオフィスに戻った。オフィスに着いてしばらくすると、李遠哲がやって来た。なんと彼は私に民進党の党主席の選挙に出るように勧めに来たのだった。

彼は情勢の分析から私の疑問に対する回答まで、腰掛けてから二時間話を続けた。私は最後には降参するしかなかった。

…このことを考えながら、また何日かが経過した。もともと賭けごとをまったくやらない私からすると、これはある意味、大きな賭けだった。

最後に私は自分に言い聞かせた。「台湾には強くて、力のある野党が必要なのだ。私が決心すれば、この件を成し遂げる能力と意志力も必ずついてくるはずだ

一身にして二生を経るが如く

6月中旬、米国のシアトルに約1週間滞在した。2年間のMBA課程を修了した娘の卒業式に参席するためだった。卒業式のプログラム表紙に Commencement とある。「始まり」の意味しか知らなかったが、米語では大学の卒業式をいうらしい。

卒業式はアメリカの青春ドラマそのものだった。幼子を抱き、子どもと手をつなぎながら卒業証書を手にする登場人物たちを見ながら、こういう体験をできる彼らを心から羨ましく思った。日本の卒業式とはあまりにもかけ離れていた。夕方約2時間、誰のスピーチも司会もないパーティが、MBAの建物のロビーほかで行われ、その後、場所を移動して、夜7時から約2時間の式が催された。

冒頭、TEDを思わせるステージ上を歩きながら体験を交えて語りかける大学理事のスピーチがあり、続いて Evening と Full time の卒業生代表のスピーチが行われた。後者の一人は日本の鹿児島県出身だった。会場にいたであろう母親に向かって「…この場を借りて」とひと言だけ日本語で感謝の言葉を伝えていた。いずれも感銘深い内容だった。

時代と家庭環境

誰でも留学できる時代だから、時代が彼女を後押ししたといえよう。とはいえ、大学院に留学して卒業することは容易ではない。それに挑戦しようとすること自体、相応の精神力と体力が求められる。彼女はなぜ挑戦しようと考えたのか。幼いころからまっすぐで無謀なところがあったが、無謀さだけでは留学しようと思わないだろう。さまざまな要因があったろうが、彼女を押したのは母親だったろうか。やはり、彼女の無謀さだったろうか。

とはいえ、外国語という壁も大きかったろう。元来、勉強するよりは身体を動かしているのが好きだった。それらを補い、MBA 留学するために、1年間 MBA 専門の予備校に通った。そういう準備をしても、留学してから半年ぐらいは授業についていくのがやっとだったようだ。文化や制度を含む外国語の壁は想像以上に高い。

教育風土

文化や制度のなかで最も大きい違いは教育風土だったように思う。戦後、日本は米国の教育制度を押しつけられたが、教育風土までは変えなかったようだ。藩校や私塾、寺子屋などが日本の伝統的な教育風土を培ったのだろうか。家庭や社会そのものに根ざした風土だろうか。授業中は教師の話を静かに聴くように教えられ、目上の人をただ年上というだけで敬うように教え込まれ、その人と対立する意見を述べることは失礼だと習った。こういう教育風土を「儒教的」ということもできるだろう。

米国の教育風土はまったく異なるようだ。大学院では、教授が講義しているさなかに学生たちがひっきりなしに質問し、コメントし、意見を述べるそうだ。初等教育以来そういう風土で育った人々のなかで「儒教的」な風土で育った者が、教授に対して自分なりのコメントをし、意見を述べるのは容易ではあるまい。韓国や日本の学生は、なかなかこの風土になじめないだろう。現代の韓国や日本が儒教社会だとは思わないが、欧米と比較して「儒教的」なのは否めないと思う。

福澤諭吉の「一身にして二生を経るが如く」を思い出す(『文明論之概略』)。彼のいう「二生」とは、江戸時代の封建社会と明治時代の欧米化した近代社会のことだと思う。人は一生のあいだになかなか「二生」を経験できない。それを娘が体験したであろうことを誇らしく思う。

ミンカブァン自伝: 日本のものになった大韓帝国

【光化門の前にある大韓民国歴史博物館に行った。1900-10年のコーナーに閔泳煥氏が名刺に書いた遺言を展示していた。以下、ミンカブァン自伝の仮訳より引用】

1905年に大韓帝国と日本が結んだ日韓保護条約により、大韓帝国はいっさいの外交権を失いました。国民にも知らされず、日本政府によって強制的に結ばれた条約のことが発表されるや、人々は驚き、そして怒りました。国に殉じようとする者もいました。国中が激しい嘆きに包まれ、深い悲しみに沈みました。

1905年[1]12月28日の夕方、貞洞(チョンドン)[2]の叔父の家の使用人が、この事実を伝えに来ました。たちまち家中が騒然となり、春川(チュンチョン)にいた父にすぐ戻るように連絡しました。私の先生は学問を教えるのもとりやめ、飛び出していきました。

保護条約が結ばれ、大韓帝国は日本のものになってしまったのです。学生たちは学校の校門を閉ざして慟哭し、キリスト教会の信者たちは天を仰いで泣き悲しみました。商人たちもいっせいに店を閉めて嘆きました。儒生たちは一堂に集まり、国に上訴しました。元老大臣たちは連日、抗争をくり広げました。

250759445887325C1ADE49[写真: gdlsg.tistory.com/m/1664]

まだ8歳だった私は詳しい内容を教えてもらえませんでしたが、内務大臣を経験し、以前兵判(ピョンバン)[3]だった叔父が亡(な)くなったことだけは知っていました。叔父のことを貞洞(チョンドン)宅、兵判(ピョンバン)宅と呼んでいました。

211939455887331420295D[写真: gdlsg.tistory.com/m/1664]

当時、侍従武官長だった閔泳煥(ミン・ヨンファン)[4]叔父は、元大臣と連名で上訴し、条約の撤回を要請しました。その思いを果たせなかった無念を国民と各国公使宛の文章にしたためた後、自害しました。その貴い血が「忠竹」になり、人びとに殉国の志を見せたのです。

しかし、一度傾いてしまった国は、もう建て直すことができませんでした。各地で学生の蜂起が起こり、朝廷では殉死する忠臣も出ましたが、ほとばしる熱気がいたずらに噴出するばかりで、国家と民族を取り戻す力にはならなかったのです。

元大臣たちは再び救国の道を求め、有能な人材は海外に派遣させられました。私の父も、イギリスから帰国してほぼ3年で、清国[5]の公使として北京に行くことになりました。

私たち家族にとって7番目の男の子のチョネンが生まれて4ヵ月ほど経(た)ったころのことでした。数えで9歳になるまで妹や弟がいなかった私に、ようやく弟ができたのです。母は何人か子どもを産みましたが、みな幼くして死んでしまいました。天の加護で助かったという意味で、弟は天幸(チョネン)と名づけられました。

弟なしに育った私はチョネンの存在が奇跡のようで、心から嬉しく思いました。乳母が乳を飲ませるときも眠っているときも、付きっきりで見守りました。チョネンが満1歳を過ぎ、よちよち歩きができるようになると、私が一手に世話を引き受けました。青木堂(チョンモッタン)から取り寄せたパンと牛乳を、決められた時間に与えて育てたのです。

【ソウル周辺地図】

[1] 陰暦では12月(冬至月)3日
[2] 典洞、コンピョン[公平]洞2番地
[3] 兵曹判書
[4] 閔泳煥(1861-1905)、ミョンソン皇后の甥、兵曹判書、刑曹判書(軍務大臣)等を経て漢城府判尹(長官)になった
[5] 満州族が建てた王朝(1636-1912年)初め盛京現在の瀋陽)に都を置き、1644年北京に移した

若泉敬著『他策ナカリシヲ信ゼムト慾ス』を読む

『他策ナカリシヲ信ゼムト慾ス』[1­994年5月15日文藝春秋、著者:若泉敬(1930-1996)] を読了した­。600ページを越す非常に読み応えのある本だった。この書と出会う機会を与えてくれたT氏に深く感謝したい。

この書を読みながらいろいろなことを考え、ま­た気づかされた。雑駁ながら、その主なところを記しておき­たい。

著者は本書の冒頭に「鎮魂献詞」と題して次の­文章を掲げ、執筆に至った心情と本書を献ずる­対象を明確にしている。

1945年の春より初夏(注: 3/26-6­/23)、凄惨苛烈を窮めた沖縄攻防戦におい­て、それぞれの大義を信じて散華した沖縄県­民多数を含む、彼我二十数万柱の総ての御霊に­対し、謹んで御冥福を祈念し、この拙著を捧げ­る。

本書はほかの誰でもない、多数の沖縄県民(注­: 12万余)を含む日米の戦没者を鎮魂するために執筆されたのである。

著者は人一倍正義感が強いとともに、いい意味­で自己顕示欲が強い人だと思う。自己正当化に­汲々とする学者ではないが、学者というより、突き上げられるような義憤に駆られて本書を書いたのであろう。

著者の激しい義憤は何に対するものだったのだろうか。あまりにも日米間にだけ向けられたがために、その視野が狭められることはなかったろうか。日米ないしヨーロッパ以外の世界がどこ­まで入っていたか、少なからず気になった。

例えば、著者の献辞にある「彼我二十数万柱の­総ての御霊」のなかに約1万人の朝鮮人犠牲者­は含まれていたのだろうか。日本人犠牲者の慰­霊碑とは別に、糸満市摩文仁の平和記念公園の­一角に建つ韓国人慰霊之塔を思う。

本書の書名は陸奥宗光(1844-97)著『­蹇蹇録』(1929年刊)の跋文から取ったも­のだ。

畢竟我にありてはその進むを得べき地に進み、­その止まらざるを得ざる所に止まりたるものな­り。余は当時何人を以ってこの局に当たらしむ­るも、また決して他策なかりしを信ぜむと慾す­。

これは日露戦争ポーツマス講和の全権委任を託­された陸奥宗光の文章だが、若泉氏はその「他­策なかりしを信ぜむと慾す」を本書の書名にし­ている。なぜだろうか。

本書の全編を或る種の歴史正当化の意志が貫い­ている。だから「他策なかりし」を信じたいの­だと理解するが、国際政治学者である著者はな­ぜ、あれほどまでに自分の関与を正当化しなけ­ればならなかったのだろうか。

戦争で失った国土を外交によって取り戻すこと­が稀有であることを本書の随所で述べている。­それはそのとおりだが、著者は秘密取引があっ­て当然だとしていて、それを正当化するために­本書を書いたと考えられなくもない。

勿論、それはいかにも客観的に事実の積み重ね­を通じて行われるのだけれど、著者の自己正当­化はかなり執拗に感じられる。

彼独特の正義感というか、義憤を抱かせる淵源­はどこにあるのだろうか。ご両親の影響だろう­か。あるいは恩師のような存在があったのだろ­うか。

それがあるときは優柔不断な首相に対する苛立­ちになり、沖縄戦で理不尽ともいうべき死を無­理強いされた人びとに対する鎮魂を思わずには­おれない。

最後の数章で沖縄返還交渉に対する複数の人の­評価を引用している。注目されるのが、中野好­夫(1903-85)と福田恆存(1912-94)という二人の英文学者だ。左右両翼の立­場から返還交渉を論じていて興味深い。

外交当局の関係者以外に引用しているのはこの­二人だけであり、ともに英語に堪能なだけでは­なく、漱石と同じ意味で批評家であり、世間的­にも知られている。両者が政治的に両極にある­から敢えて引用したのだろうか。いかにも客観­的ではある。

畢竟、沖縄返還とは何だったのか。国民を愚弄­し欺瞞し続けた「本土なみ、核抜き」返還とは­いったい何だったのか。「密約」があったこと­は明々白々である。本書の精緻な記述はそれを­証明して余りある。

返還後45年を過ぎた沖縄県の現状もまた、雄­弁にそのことを見せつけているではないか。だ­とすれば、本当に「他策なかりし」だったのか­、再検証すべきだが、どういう検証方法がある­のか、僕は考えつかない。

著者は「他策なかりし」という語句がきわめて­政治的な表現であることを熟知していただろう­が、それが「密約」を正当化するのに極めて便­利だったことを、どこまで意識していただろう­か。

かくして「他策なかりしを信ぜんと欲す」とい­う表現は消極的な自己肯定ではなく、積極的な­自己正当化なのである。人が晩年に著す文章はすべて自己主張というよ­りは自己正当化なのであろう。著者はその作業­を極めて真摯に、そして精緻に行ったのである­。

Why did Min Jin Lee write “Pachinko”?

Min Jin Lee, the author of “Pachinko” tells us why she has written this novel on generations of Korean people living in Japan.

http://www.cbc.ca/radio/writersandcompany/min-jin-lee-on-the-untold-story-of-koreans-in-japan-1.4371100

QUOTE

The failures of history

“One thing that struck me in my study of history is how people are excluded. I don’t mean just racial minorities or women. Pretty much all poor people who don’t have documents are excluded from history and its records.  People who were illiterate usually didn’t leave any primary documents. I was interested in how we think about people because the history that we have is limited to an elite body. In my experience of trying to interview people from all different backgrounds, especially the very, very poor and the illiterate, I notice that their attitude is, ‘We know that we weren’t included in the party. However, we are fine. We’re still going to keep on going. It doesn’t matter. We’re just going to adapt.’ That is the primary idea of this book. History has failed pretty much everybody. And yet no matter, we persist.”

Exploring Korea’s painful past

“In the 21st century and in the latter part of the 20th century, we think of South Korea and North Korea. But for 5,000 years, there was just Korea. When it was just Korea, it essentially became a colony of Japan. Japan, which is a wonderful country, has very few natural resources. So when Japan wanted to expand, Korea became its breadbasket. They took a lot of things from Korea and the experience of most Koreans of that era is one of general humiliation because they had their property, language and a lot of their authority taken away. The experience of the people who lived under the occupation was very difficult because they lost their national identity. A lot of people don’t like to talk about it. It’s a period of history that’s very complicated for the modern Korean to tackle because it’s one of humiliation.”

Expanding Western education

“We have huge holes in our education in the West. I think that we have little knowledge of Asian history. If you ask a well-educated, modern Western person about World War II, most will think that the theatre of war was only in Europe. But it’s known that the Pacific War was going on concurrently, and we don’t know anything about it. The 20th century Cold War proxy wars all took place in Asia. Yet again, we know hardly anything about it. This is a failure of the educational system. But people decide what is worth studying. We are going to have to know much more about Asia and the Middle East than we want to, or think that we need to know in the West.”

Recognizing the Korean Japanese experience 

“If I force myself to wonder what made me think about and work on this book for almost 30 years, it’s this sense that the Korean-Japanese experience was never my experience. I moved to Queens, New York when I was seven and a half. I went to middle school in a foreign country, but I had so many different kinds of Americans push me along and encourage me. I was very odd. I didn’t talk very well, we were poor and we didn’t have any connections, but people showed up and pushed me along. I knew that there was something wrong if a country not only rejected you, but also your parents and your grandparents. This is what happened to the Korean-Japanese. Even today, they’re not considered citizens.”

Min Jin Lee’s comments have been edited and condensed.

Music to close the broadcast program: “Arirang,” performed by Wu Man, Luis Conte and Daniel Ho. 

UNQUOTE

a black dog

檜原村千石バス停から大滝と綾滝沿いのハイキングコースをMTBを押しながら登っていった。

4週間前に友人が馬頭刈尾根に置いたMTBを取りに行き、そこから前回果たせなかった下りを楽しむためだった。

バス停から続く舗装された林道が途切れ、登山道に入ってすぐだった。細い渓流の反対側の斜面をすべるように下りながら、何かに向かって吠える黒狗を見た。

滝から落ちる渓流沿いの道は岩が多く段差も激しい。MTBを押していくのはつらい。

綾滝の女性的な水の流れを愛でる余裕もなく、ひたすら登っていった。途中、何人かに道を譲り、いつも遅れぎみの友人にも先に行ってもらった。

つづら岩近くの稜線に差しかかる少し手前だった。先行するハイカーが止まり、下る人に道を譲るようにみえた。そこに現れたのはヒトではなく、登山道に入ってすぐのところで見た黒狗だった。

黒狗に道を譲ろうとしたが、動こうとしない。僕が登っていくと、どうしたことだろう、彼がもと来た道をもどり、僕を先導するかたちになった。

僕が数歩進んで立ち止まると彼も止まって、僕を見ている。黒毛でおおわれた股間に濡れたピンク色のペニスをのぞかせていた。

賢そうな表情をしたラブラドールの老犬だった。よだれをたらし、やさしそうな茶色の眼でじっと僕を見つめている。

首輪にアンテナのようなワイヤーが付いており、喉のあたりで小さな光が点滅している。飼い主が近くにいて、交信しているのだろうと思った。

こうして、彼は僕を尾根道まで案内してくれ、つづら岩の下に着いていた友人と僕が話しているあいだにいなくなった。

友人のMTBを置いてあったところで昼食をとったあと、二人で大岳山から鋸山に続く稜線をめざした。

40分ほどMTBを押し歩き、急峻な岩場を半ば登ったところで、二人のペースでは明るいうちに下山できない、と判断した。

友人が岩場の手前に着くのを待って「引き返そう」と言った。彼もすぐに同意した。前回の無謀な暗夜行があり、二人とも慎重になっていたのだ。

馬頭刈尾根に沿って昼食をとった場所に引き返し、そこを通過して尾根を進み、二人それぞれのペースで、前回と同じく別々に茅倉へ下る道を進んだ。

下り始めてしばらくすると、うしろに誰かついて来るような気配を感じた。振り返ると、あの黒狗が僕に従うかのように立っているではないか。

僕が進むとついて来て、1-2mうしろで止まる。先に行くように身ぶりと複数の言語で伝えても、じっとこちらを見ているだけで動こうとしない。

正直なところ、不気味な感じがしないではなかった。乗れるところは少し無理してもMTBで走りぬけ、振り切ろうとしたが、すぐにまたピタッとついて来る。

こいつ、己を何だと思っているんだ。己はおまえの飼い主ではないぞ。なぜついて来るんだ。何かをねだろうとしているのか。水がほしいのだろうか。

何度か水をあげようとしたが、器を出すことなどを考えると面倒でやめた。そうこうするうちに、沢を渡ったので、そこで飲めばいいと思った。

MTBで走りながら、倒木をよけようとして転倒したことがあった。自転車のフレームからようやく脚を抜いて振り返ると、彼がおすわりをして僕のほうを見ていた。

こんなふうにして約1時間半、一匹の黒狗と一緒に山道を下っていくなかで、いつしか彼に親しみを抱くようになった。

山中で飼い主とはぐれ、道に迷ったに違いない。僕がどこか飼い主に似ていたのかもしれない。とにかく、僕のことを気にいったのだ。

僕も職を失ったから、道に迷ったようなものだ。迷った者どうしではないか。そんなふうに考えながら、下りつづけた。

林道に出る少し手前で、廃屋の庭に立っていた老人が急に近づいて来て、彼の名前を呼んだ。老人は無線で誰かに「ハイカーと一緒におりてきた」と話していた。

やはり、彼は山中をさ迷っていたのだ。老人は「めったにヒトになつかない犬なのに…」と言った。僕は、黒狗の喉元をさすり、別れのあいさつを交わすと、ひとりで林道に出た。

Pachinko by Min Jin Lee

Min Jin Lee は1968年に韓国で生まれ、7歳のとき家族とともに米国に移民し、ニューヨーク市に住むことになった。2nd grade に入学するが、授業も同級生の会話も聞き取れず、つらい孤独な時期を過ごしたようだ。https://www.minjinlee.com/

本もテレビもない家庭にあって、彼女の楽しみの一つは毎夕食時に共働きの両親が日々仕事で接した人びとについて語るのを聞くことだったという。登場人物の多くは在米コリアンだったようで、彼女のなかに彼らの人物像が形成されていった。

父親は北朝鮮の出身で、朝鮮戦争の戦禍を逃れてプサンにたどり着き、戦後は米軍関係の仕事に就いたらしい。そのころプサン出身の母親と出会い、周囲の反対を押し切って結婚したという。母親の周辺に教会関係者がいたようだ。Min Jin Lee の略歴にふれたのは、小説 Pachinko が描く在日コリアン像に著者の在米コリアンとしての来歴が重なって見えるからだ。

小説 Pachinko は、大日本帝国が朝鮮を併合した1910年から「冷戦終結」とされる89年までの激動期を生き抜いた4世代のコリアンの群像を描き、時代背景を浮き彫りにしている。小説の舞台はプサン・ヨンド(影島)、大阪、東京、横浜、長野、ニューヨークだ。米国社会を加えることで、在日コリアンを相対化し、日本社会の特殊性を浮き彫りにしている。

第2部後半から第3部までの同時代を生きた僕は、この小説を読みながら自分の当時の姿を投影して振り返っていた。隣国に関心を持つ日本人は稀で、新聞各紙が北朝鮮を「地上の楽園」と礼讃していた70年前後、そこに理想社会を見た多くの人が嬉々として万景峰号に乗り込んでいった。

この小説もそういう在日の姿を見落としていない。実際は北朝鮮による拉致事件が横行していたのに、日本の政界も公安当局も把握できなかったか黙過した。後年摘発する者が出てきたが、遅きに失した。

この小説は、読者に当時の日本社会と隣国との関係を振り返ることを強いる。50年前に僕が感じ考えていたことを Min Jin Lee がジャーナリストの観察眼と小説家の感性で文章化してくれた。この点、大いに彼女に感謝しなければならない。

三部構成の小説 Pachinko

第1部 1910-33年: 日本の植民地時代のヨンド、スンジャの両親が営む下宿屋、漁師などの下宿人との生活、スンジャの父で障害者のフーニィと彼の死、市場を取り仕切っていたであろう済州島出身のハンスとの恋愛と妊娠、ハンスとの訣別。

結核を煩いながら平壌からプサンまで旅行し、倒れ込むように下宿屋にたどり着いた牧師イザクとスンジャの出会い、彼女が身重であることを知りながら、イザクはスンジャと結婚し、牧師の職を担うため日本に向かう。

第2部 1939-62年: イザクの兄ヨセフを頼ってイザクとスンジャが大阪に着く。ヨセフ夫婦とともに大阪の猪飼野に住み、スンジャは長男ノア(実父はハンス)を出産し、数年後にイザクとのあいだに次男モザスを産む。イザクは二人の子どもに愛情を注ぐ。

40年代、イザクは所属教会の牧師と助手とともに官憲に捕らえられ、数年後に死期を迎えて解放される。他の二人は獄死する。牧師は在日コリアンで、もう一人は在日中国人だった。

ノアは成績優秀だが、貧乏ゆえに数年浪人して早稲田大学英文科に進む。ハンスが実父とは知らされずに、やくざの彼に入学金と授業料のみならず、贅沢なアパートと生活費の提供を受ける。

大学3年のとき交際したアキコの好奇心が引き金になって、やくざのハンスが実父だと知るや、ノアは誰にも行き先を告げずに逃亡する。長野県で周囲の人びとに出自を隠してパチンコ屋に就職し、同じ職場のリエと結婚し、家庭を築く。

ノアの弟モザスは兄と違って勉強嫌いで、力道山を崇める正義感の強い男子だ。学校生活になじめずに高校を中退し、在日の経営するパチンコ屋に就職して家計を助ける。

兄の影響である程度英語ができたモザスは、アメリカに焦がれるユミと結婚する。店舗を任されるまでになり、横浜の新店舗のマネージャーに就任する。順調に見えたが、妻のユミが交通事故死したことで暗転する。

第3部 1962-89年: モザスの子ソロモンは横浜のインターナショナルスクールで学び、米国コロンビア大学に留学して卒業し、在米コリアンの女性と帰国し、外資系の投資銀行に就職する。ところが、ゴルフ場用地に住む在日の地主を懐柔する仕事を任され、その地主が急死したことで退社を迫られ、パチンコ業に就く決心をする。それを勧めたのが、彼の初恋の女性で梅毒に倒れたハナだった。父親のモザスは反対するが、結局は受け入れる。

イザクの兄ヨセフは1945年の夏前に長崎に出稼ぎに行って被爆し、帰阪後は寝たきりの生活を送る破目になる。ヨセフはハンスがノアの学費等を出すことに猛反対し、晩年同じ屋根の下に住み、ヨセフの妻キョンヒに想いを寄せたチャンホの北朝鮮行きに最後まで反対し、自分の妻との結婚まで勧めるが、すべて彼の望まない方向に進んでいく。

済州島出身で紳士然としたハンスは、大阪の金満家に可愛がられ、その娘と結婚することで権力を得て、ヨンドと猪飼野周辺を支配するやくざで、日本の敗戦を早く察知し、被爆したヨセフを米軍に頼んで大阪まで搬送する。終始この小説のプロットに関わる運命的な存在であり、スンジャが彼の子を孕んだことが小説の展開を導いているかに見える。

スンジャを支えたのは若くして亡くなった父フーニィの深い愛情と母親の献身とやさしさだろう。母親は後年ハンスの手引きで来阪し、スンジャ家族とヨセフ夫婦と同居する。ノアの拠りどころはイザクではなかったか。長野に隠遁したあと、毎月欠かさずにスンジャとハンスにお金を送り続け、大阪にある父親イザクの墓を訪ねている。ノアは16年ぶりにハンスが探し出した彼を訪ねた母親と再会した夜、40代半ばで自殺する。

小説 Pachinkoは、父親も異なり性格も進路も異なるスンジャの二人の息子が、在日二世であるがゆえに結局はパチンコ屋の仕事に就き、インターナショナルスクールを経て米国留学まで果たした孫も三世であるがゆえにパチンコ屋を継ぐという在日の置かれた状況を描き、米国社会と比較して日本社会の不条理を鋭く批判しているように思う。Screenshot_2017-06-27-18-06-33_1