Category Archives: 零れ話

こぼれ話

零れ話: ナマケモノ[怠けもの]

ナマケモノとはいったいなんだろうか。
「仕事をすればいい腕をもっているのだが、どうも怠け者で…」といわれる職人さんがいらっしゃる。
本当にそうなのだろうか…、役に立たない人なのだろうか…
でも、「もっと、楽に作るには…、良いものを創るには…」と、考えている過程としたら…、見方は異なってくる。
物事は、やってみないと判断が難しいことがある。
結果的に、“百発百中”ということもあり得ない。
要は、本人も努力を重ね、それを表し、認めてもらう…と共に、周りも、見まもることが求められるのでは…
ふと、本当に、“ナマケモノ”はいるのだろうか ?
ひょっとしたら、周りが、そのように仕向けてしまった…ということもあるのでは…と考える。
見分けは難しいが…

【 写真 ⇨ google・実物 】

零れ話: ウシロガミ[後ろ髪]

「チャンスの女神に、後ろ髪はない…」

人に機会が無いのではない、機会を見捨てているのである。

耳が痛い…
機会(幸運…)が目の前に訪ねてきているのに、気づかずに、通り過ぎてから慌てても、つかむ術がなく、遠ざかってゆくばかり…
分かっているけど、日々、繰り返している事…
災いを嘆いていても、其れだけでは快方に結びつかない。
目を凝らして、周囲を見回し、機会を見出し、己の足で歩き始めるしかない…
勿論、周りからの援助も大事だが…

【 写真 ⇨ 我写 ・便り 】

零れ話: ウケミ[受身]

柔道の基本は“受身”。
“受身”とはころぶ練習。 負ける練習。
人の前で、恥をさらす練習。
相田 みつを

柔道に限らず、命を守るこということは、体裁を繕う…
世間体を気にして振舞ってはいられないはず。
しかし、己をふり返って、如何に、人の目を気にしているかに驚く。
要は、事態に、真剣に向き合っていないのだろう…か ?
「恥をさらす練習…」との言葉に、頭に一撃を受けた思いである。

【 写真 ⇨ google・勝負 】

零れ話: イキザマ[生き様]

いくたびも 鴉に生まれ 夜明けごろ 鴉ら集い 甘く鳴き合ふ
高野 公彦

何の因果か、鴉から鴉に生まれ変わる、それも幾たびも。
その鴉たちが、夜の明けやらぬうちから、騒がしく鳴き叫んでいる。
前世は“何者”と、余計なことを思う…
人界に…、あわよくば、天界へ…が、多くの民の願いとは思うが、“望ましい行い”をする…、“境涯をあげる”には、何かに、一心に努めなければならない。
だから、輪廻の海に漂いながら、永遠に鴉であり続ける(?)彼等も、それはそれで甘美な世界なのかもしれない。
…と考えるのは、当方の怠け心か…

【 写真 ⇨ 我写・天界 】

零れ話: あなた[…?]

黒板を 消しても残る 落書きのように あなたがまだ そこにいる
原田 彩加

いったん「あなた」を消そうとしたのだ…、心の中から…
「あなた」とは、恋人…、或いは、心配ごと…か?
しかし、なかなか消えてはくれない。
こころの襞にチクチクと当り、気づかせようとする「あなた」。
黒板消しを持って、かすかに残る消し跡を見入る…
決断力に欠けるというか…、一歩踏み出せぬ我に重なる。

【 写真 ⇨ 我写・記憶 】

零れ話: カンショウ[感傷]

人生に希望を見失うと、とかく感傷的になりがちである。
でも、感傷性自体は決して悪いことではないと思う。
それは、悲しいときに泪を流すことによって気持ちが晴れるように、荒廃した生活にとっては一つの潤いでもあり、救いともなるのだろう。
また、特定の作家に共感を覚えて耽読し、その世界が自分の人生を予見させているように映ったりすることもある。
人間にはこのような詩(時)をもつことも必要だが、これにあまりにもとらわれると、ある場合には障害となることもある。
「人生とは、人と触れ合うこと」
触れ合う人によっては光を与えられたり、日陰に追い込まれたりする。
しかし、その度に、何かに気づき、得ることがあったはずでは…
“思い通りにならないのが人生”だが、一歩いっぽ踏み出し、誰かと“結び目”を巡らしてゆきたい…

零れ話: キボウ[希望]

「希望とは、本来あるとも言えないし、ないとも言えない。
これは、ちょうど、地上の道のようもの」 魯迅

久しぶりの故郷で、かって兄弟のように遊んだと友と再開する。
しかし、友は頑なに元使用人の息子の立場を崩さず、それぞれの願いも遠く隔たっていた。
だが、希望を絶やさずにいれば、歴史が切り分けた“二つの希望”も、いつかは交わるやも。
諦めずに、前に、一歩踏み出し続けること…

「地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができる」
短編「 故郷 」より

【 写真 ⇨ google・原野 】

零れ話: タイツ[多一]

「世の中がいろいろと乱れて、混沌としてくると、何がほんとに美しいのか、何が純粋なのか、どこに基準をおいてみたらよいのか、分からなくなります。しかし、そんな時、私は自信をもって、自分が美しいと信じるものを、自分の中に豊かに吸いとって、これこそが新しい魅力なのだと、表現したいと思います」 杉村 春子

いろいろな多元的な世界に、実は真理が宿っている。
ちょうど一本の樹は幹が一つですが、枝葉が無数にあるように、真のこと( 美、基準、…)は“一つ”ですが、それが人間という媒体をとおして表わされるときに“多”となる…
いろんな表現(発言…)があっていい、徐々に、浄化されてゆく( 剪定 )…
先ずは、自己肯定が出来そうで、ホッとする。

【 写真 ⇨ 我写・庭先 】

零れ話: フシギ[不思議]

身体の仕組みには、不思議がいっぱい含まれている。
例えば、腎臓の働きといえば、小便製造工場と簡単に考えがちだが、その機能の緻密さには驚くという。
先ず、血液から 赤血球を除いて、老廃物を含む液体成分を袋に浸出させるという、その後、細尿管という曲がりくねった管で、人体に必要な成分は再吸収され、血液の中にもどされる。
この再吸収率は98%にものぼり、この機能が働かず、小便として排出されると、数分で日干しになり、死亡する恐れがあるという。
そして、選別作業にあたる細尿管を延長すると、片側だけで、何と、“225km”にもなるという。
人間が、厳しい環境下でも、生き延びられるのは、この様な人体の余裕を持った機能が備えられているからなのだろう。
誰にかは分からないが、感謝である。

【 写真 ⇨ 我写・生きる 資料: 生活歳時記、三宝出版 】

零れ話: アクホウ[悪法]…?

徳川の五代将軍・綱吉は、たいそう学問好きの人であったという。
しかし、その彼が発した「生類憐みの令」によって、「犬公方…」などと呼ばれ、評価を下げたと学んだ。
ところが、この令は「人々が仁心を育むように…」との思いで、戦国時代の“命の軽かった時代の名残り”である、捨て子(間引き)、病人、老人・等を遺棄する風潮をただそうとしたものとの見方がある。
今風にいえば、社会福祉(弱者救済)であったらしい…
しかし、武士階級には、結果的に、鷹狩・犬追い、等も禁止、処罰の対象となり、武術の訓練が出来なくなったことで不評をかったものらしい…
いつの世も、どの国でも、伝統と動物愛護が成り立たないようで、お立場で評価が異なるものらしい…

【 写真 ⇨ google・武芸 】