Category Archives: 壱里如

イチリ

壱里如: サンピ[賛否]

最初から はんたいでした とみんな言う それならこうは ならないものを
松村 正直

結果が思わしくないと、後で、「俺は反対だった…」と言いだす人がいる。
黙っていたことは支持すること。
反対なら、ハッキリと、言わないと…
これまでも、「戦争には反対だった、国民はだまされた」のだと、つぶやく人が大勢いた。
自分の道は自分で決めないと…、そうしないと、結果の責任を誰かに押し付けることになる。
今、巷での一部発言を聞いていると、非難の矛先が違うように思い、不安になる。

【 写真 ⇨ google・議決の場 】

壱里如: イシズエ[礎]

かっての城下町を訪れると、天守閣は無くても、石垣が残っており、歴史の数々と人々の営みの痕跡を残して、威容を誇っている。
石垣は、雑多な石を積み重ねているかに見えるが、何百年もの間崩れることなく、互いを支え合って、苔むしている。
礎の大切さを教えているようだ…
こじつけになるが、知人が、過去数年のFBを整理し、ブログ化してくれたこともあり、今後の“己の生き方(礎)”を見直す糧にと、再読を重ねてみたい。
ご覧いただき、ご指摘・ご指導の言葉をいただければ幸いです。
下記をクリックしてみてください。

https://muragimono.wordpress.com

【 写真 ⇨ 我写・礎石 】

壱里如: キョウカン[共感]

「私には他人の痛みというものが、どうしても分からないんです」
ある工学研究者

彼の妻は交通事故に遭った後、激しい閉所恐怖症になり、一時間も列車の箱の中に居られないという。 よって、遠方の実家に新幹線で帰るときも、数十分おきに扉が開閉する“こだま”に乗ることになる。
彼は、彼女の恐怖がいかなるものか分からないまま、それでもずっと付き添ってきたという。
「共感」を口にするよりも、共感出来ないと思い定めた後にどう
振る舞うかが、もっと大事なのかもしれない…

【 写真 ⇨ 我写・支える 】

壱里如: ビ[美]

不完全を厭(いと)う美しさよりも 不完全をも容れる美しさの方が深い。
柳 宗悦
人はだれしも過ちや矛盾をまぬがれない。
完全からはほど遠い。
巧みに描かなければ美しくならない様な絵が、ついにまずまずというところまでしか行けないのなら、過ちや矛盾を散り去って完全を目指すよりも、完全か否かの分別のこだわりを捨て、「不完全をままに、謬(あやま)りのない世界に受取られる」ことを願うべし…と、民芸の思想家は説く。
そうすれば、少しは、生きやすくなる…のでは。

【 写真 ⇨ 我写・把手破損 】

壱里如: キョウヨウ[教養]

「敵の退路に橋を作る」

「人間てものは結局自分のためしか考えないものさ。
自分が殺されそうになったら相手を殺すのが当然だし、
貧乏して困ったら盗みを働くのもやむを得ぬ。
これが現実さね」という結論に落ち着きかねない。
しかし、これまた克服されるべき「現実」では…

他人を、自分のことだけしか考えられないような窮地に陥れないようにすること、又、その自我の奥底で尻をまくるような土壇場へ追いこまぬようにすること、これが「教養」と諭す。
これが社会を結成して生きようとする人間の倫理の第一歩と…、誰でも困却すると獣や機械になりますから、お互いにそうならないようにすることが大切…と説く。
上述の古諺は、単に巧妙な戦術ではなく、知恵なのかも…

【 写真 ⇨ 我写・活かす知恵 資料: 「人間模索 」渡辺 一夫 】

壱里如: 日々の指針

自分中心に見ているときは、「 相手が間違っている 」としか思えない。

言うまでもなく、私たちは社会の中で一人で生きているわけではなく、互いに助け合って、支え合って日々を暮らしている。
自分と違う意見や考え方に出会ったときは、自分の物の見方や発想に新たな視点を加えられる絶好の機会ととらえたい。
より多くの意見や考え方を吸収し、周りと協調し、支え合うように努めたいと思うが…

【 写真 ⇨ 我写・何見える… 】

壱里如: シッポキリ[尻尾切り]

「蜥蜴の尻尾切り」といえば、部下に責任を負わせて切り捨てること。
尻尾切りで事を闇に葬ろうとする、上役たちの黒い腹の底をえぐり出す。
要は、かげでは足の引っ張り合いをしているのに、保身のためには一致団結するのだ。
現在の組織( 政権周辺…?)に対する皮肉か…

尻尾切るときはぴったり合う意見 浅利 猪一郎

【 写真 ⇨ 我写・抹消・削除 】

壱里如: グウゼン[偶然]

命に関わる仕事は大変だ…
特に、死を受け容れられずに苦しむ人の振幅の大きな語りに、じっと向き合い、最後まで伴走するのは重い仕事だ。
ベテラン看護師のお話として、聞いたことがあるが、患者さんの部屋に入る前、邪魔が入らないように、普段はPHSの電源を切っておくのだが、どっしりと構えて、最後まで聴き取る自信がない時は、「◯分経ったら、一度呼んでね…」と同僚に声をかけ、わざと電源を入れておくという。
彼女は「私、きっと、偶然を使ってるんですね」とおっしゃっていたという。
高齢化対応・終末医療が、益々、求められていくなか、一人の人間に負担を強いるのは、酷といううものではないのだろうか…

【 写真 ⇨ 我写・つなぐ 】

 

壱里如: ヒト[人=男女]

このところ、某医科大学の入試における選考基準が話題になっている。
要は、「女子受験者の定員制限…」
巷では、「女性の能力開発・活用…」と喧しいが、取りあげること自体が差別の存在を証左している事では…
実態は「 男性優位 」が厳然と残っているようだ。
手元の資料を開いたら、「明治十八年(1885)九月、荻野吟子が医術開業試験に合格し、女医第一号になった」とある。
彼女も、当初、「女子は受験できない」との理由で、再三、受験を拒まれた。
しかし、試験規則に女子についての明記がない事をあげて、受験を申請し、合格している。
其れから一世紀以上経っても…という事である。
今や、男女で差別する事なく、一人の人間として認め合い・支え合うことが、益々、求められているのでは…
江戸時代中期の陸奥の藩医が、いみじくも、「 “男女”と記して、“ひと”と読む…」と書き残している。
先輩の遺言を思い出して欲しい…

【 写真 ⇨ 我写・結界… 】

壱里如: 小さな好意

誰も、誰かから求められることが無いかもしれないが、その人がそこにいるだけで嬉しくなってしまうのが、“愛”なのではないだろうか…

自分の存在には特定の誰かが必要だという、ある意味で、男女の“閉じられた愛”もあるが、一方、「 みんなの小さな好意をかき集めて、生きてゆきたい 」と願う“愛“もあるのでは…
優劣を競うより、相手の立場を考慮して、互いの弱さを認め合い、支え合うことで連携を深め、生きる(愛する)ことでは…
「 今、いのちがあなたを生きているのだから…」

【 写真 ⇨ 我写・床の間 】