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1950-

電車という名の動く寺院 mobile temples (a short story)

この短編を「縦書き文庫」でお読みください. Click!
関連作: 老人たちよ異界でタンゴを舞うな

鉄道会社の駅務員だった主人公はその仕事を天職と信じ、他の誰よりも献身的に駅務に尽くしました。おそらくその献身ぶりがたたったのでしょう。半年あまり過ぎたころから精神に変調をきたし、一年ほどでめてしまいます。以下の文章は、そのあいだに彼が観察した電車と駅構内などにおける人々の生態について彼が担当医と記録係に話した内容をもとにしています。

駅のホーム

大きくカーブした線路に沿ってホームが弧状こじょうに延びている。ホームの上には、白い塗料をぬりたくった鉄柱が規則正しく並び、半透明なアーチ状の屋根を支えている。何本かおきに柱の上方に取りつけられたスピーカーが、朝暗いうちから深夜まで、一定の間隔をおいて電子音のチャイムと駅員のヒステリックな声を吐き出し続ける、いかにも都会的で無機質むきしつな風景だ。

電車の最前部の車輌が、みるみる大きくなって駅に近づいてくる。

ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)
電車が入ってまいります(録音された声が流れる)
足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声が流れる)

朝のラッシュ時間、ひっきりなしにホームに入ってくる電車が威厳いげんを示すように警笛けいてきを鳴らすたびに、駅員たちがあわただしく動き回り、苛立いらだたしげに決められた台詞せりふを叫ぶ。それにあおられるかのように、ホームを行き来する人々の動きがあわただしさを増す。

電車が入ってまいります(録音された声)
ピピーピッピー(駅員がホイッスルを吹く)
足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声)
ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)

駆けこみ乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)

ダンダラダーダンダラダーダンダラダラダー(発車の電子音が響く)
ドアが閉まります、無理なご乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)
次の電車がまいります(電光掲示板の文字が表示される)
次の電車をご利用ください(駅員が叫ぶ)

電車が発車します、おさがりください(駅員が叫ぶ)
ピピーピッピー(ホイッスルが鳴る)

この物語の主人公である凭也ヒョーヤは、朝のホームが好きだった。毎朝夕こんな光景を見ていた。そのまっただなかで、改札口を通り過ぎていく相手の定まらない人々に向かって、数秒ごとにあいさつをくり返すのが彼の仕事だった。仕事の一部としてそうするのだが、彼にあいさつを返す人はいない。改札係など機械じかけの人形ぐらいにしか考えていない人々は、うつむき加減かげんに急ぎ足で彼のよこを通り過ぎるだけだ。彼が発するあいさつのことばは人々の靴音くつおとのなかにむなしく消えていく。

ドドッドドッドドードドッドドッドドー(人々の靴音が響く)
おはようございます、おはようございます(改札係が声を出す)
通勤お疲れさまです、お疲れさまです(改札係があいさつする)

改札係になって数ヵ月のあいだ、凭也は駅のホームとそこを通過する電車が作り出す光景が神聖な伽藍がらんのように見えた。朝夕の陽光を浴びてホームを動き回る人びとの姿は敬虔けいけんな信者のように映ったし、仕事とはいえ宗教儀礼のようにあいさつすることに何の疑いもいだかなかった。人々に対して、家畜に対したときのような優越感を抱くことはあったが、ホームも駅舎もすべて通過する人々の寄進きしんで建てられたものだったし、彼らがいなくなれば改札係もいらなくなると考えていた。まるで当然のことのように、通過していく人々をうやまっていたのである。

お勤めごくろうさまでした、ごくろうさまでした(改札係があいさつする)
本日もご利用いただき、ありがとうございました(改札係が頭をさげる)
ありがとうございました、ありがとうござ……

電子音と駅員たちの声がスピーカーから流れるたびに、ホームの光景に彼らの苛立ちと怒りが渦巻うずまいているように感じるようになったのは半年ほどたってからだった。それでも、自分をとりまく光景を不自然に感ずることはなかった。ごくあたりまえのことだと考えていた。一年以上ものあいだ、彼はほとんど休むこともなく働きつづけたのだから。それは敬虔といってよいほどであった。それがわざわいしたのかもしれない。いつのころからか、駅員たちの叫び声が罵声ばせいに聞こえるようになった。

おい、いったい何度いったらわかるんだ
ホームのはしを歩くんじゃない
ドアがしまるといってるんだ
おい、走るんじゃない
ほかの人に迷惑だからやめろといってるんだ
やめないか、おい、いい加減にしろ
おまえたちなんか家畜とおんなじだ
電車に引かれて死んでしまえ
死んでしまえばいいんだ

つづきは縦書き文庫でお読みください。→「電車という名の動く寺院」

写真: 韓国・京仁線の仁川駅(1899年) 경인(京仁)선 인천역, 1899년

120年前に漱石が跨がった自転車

以下の文章は、宮田浩介氏の「サイクリストになった漱石: 技術史の視点で読み解くロンドン『自転車日記』」(Jubne Notes 2014年3月掲載)を一部編集(見出しの一部修正と図版の選択など)を施し引用したものです。同氏はこの文章の末尾に次のように記していますが、大いに同感です。漱石がぐっと身近な人になりました。

『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。
Jubne Notes ©2006-2022 kosukemiyata.com

以下、引用します。

夏目漱石の作品に「自転車日記」というタイトルの短編がある。留学先のロンドンで自転車に乗り始めた時のことを、自虐的かつユーモラスな口調で語ったものだ。西洋近代の中心地で漱石が出遭ったのは、いったいどのような自転車だったのか。そして彼は、この文明の産物とどんな風に格闘したのだろうか。19世紀の終わり頃の資料などを頼りに、彼のサイクリング体験の実像を探ってみよう。

漱石35歳の自転車デビュー

漱石の「自転車日記」に綴られているのは、「西暦1902年秋」、今からおよそ120年前の出来事だ。彼は既に満年齢で35歳になっていた[1]が、下宿の「婆さん」から強く勧められてその「命」に従うまで、自転車に「乗って見た」ことは全く無かったらしい。

未経験者の漱石にとっては、自転車に跨るだけでも大変なことだった。「いざという間際でずどんと落る」。「ずんでん堂とこける」。監督役の「○○氏」に車体を支えてもらい、サドルに腰かけたところで前に押してもらっても、次の瞬間には「砂地に横面を抛りつけ」ている。日を経て「ともかくも人間が自転車に附着している」状態を保てるようになっても、坂道での練習で彼は制動不能に陥り、塀にぶつかった後でようやく止まるのだった。

訓練を開始してから数日、やっとサドルに座ってペダルを漕げるようになってきても、漱石はまだ思うように走れなかったようだ。 よく知っているエリアの案内を同行者に任されたのに、彼は「曲り角へくるとただ曲りやすい方へ曲ってしまう」のだ。 なんとかハンドルをこじって別の方向へ曲がってみるも、今度はその急激な動作によって、「余に尾行して来た一人のサイクリスト」の転倒を誘発してしまう(怒った相手は「チンチンチャイナマン」と彼を罵倒する)。

人間万事漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもない

「日記」の終わり近くのある日、漱石はこんなサイオー・ホースめいた格言を作って開き直ってみるが、「バタシー公園」(Battersea Park)へ行く途中で他の自転車の割り込みに遭い、「自分が落ち」て危うく馬車に轢かれそうになる。

漱石が購入した「老朽の自転車」

こうして「自転車日記」をざっと読み通してみると、漱石は運動が苦手、との印象が否めない。 運転中の判断のセンスが疑われる場面も多く、思わず「そういう時はこうするんだよ!」と教えてあげたくなる。 けれどもその助言が正しいかどうかは、もう少し詳しく調べてみなければ分からない。自分のイメージしている自転車が、そもそも間違っているかも知れないからだ。

「ラヴェンダー・ヒル」の自転車店を訪れた際、「○○氏」はまず「女乗」を薦めた、と「日記」にはある。これに対し漱石は「髯を蓄えたる男子に女の自転車で稽古をしろとは情ない」と抗議、練習車は「いとも見苦しかりける男乗」に決まった。それは「関節が弛んで油気がなくなった老朽の自転車」で、「物置の隅に閑居静養を専にした奴」という感じだった。

図3[3]: 漱石の言う「女乗」とは、スカートでも乗れるフレーム形状の自転車のことだろう

漱石が購入した「老朽の自転車」は、実際のところどんな構造のものだったのか。店の場面の「上からウンと押して見るとギーと鳴る」、「ハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり」といった描写は、前輪が極端に大きい「オーディナリー自転車」には当てはまりそうにない(図4参照)。1880年代の中頃まではこのタイプが「普通の自転車」(ordinary bicycles)だった[4]が、1895年には新型にすっかり「普通」の座を奪われ、その呼び名も限定的な形(Ordinary Bicycles)に変わっていたようだ[5]。そんな車種を1902年になってわざわざ選ぶというのも、初心者の訓練用としてはまずありえない。

図4[6]: 「オーディナリー」型の自転車のハンドルは乗車前に上から押せるような位置にはない

1880年代に進んだ「セーフティー」(Safety)自転車の開発には、乗車位置を下げて転倒の危険性を減らし、なおかつ安定した走行性能を確保するという共通課題があった[7]。これらの条件を満たして好評を得たのが、スターレー・アンド・サットン(Starley & Sutton)社の「ローバー」(Rover)だった。チェーンを介した後輪駆動、前後同等サイズのホイール(2世代目以降)といったその構成は、自転車のスタンダードとして次第に定着していった[8]。1888年にはスコットランド出身のダンロップ博士が空気を入れるタイヤの特許を取得、乗り心地が良く楽にスピードの出せるこの方式のタイヤは、7、8年のうちに殆ど全ての新車の標準装備となり、従来のソリッドタイヤを駆逐してしまった[9]

図5[10]: 空気入りタイヤとそうでないものとが混在し、新車購入時にユーザーがどちらかを選択できた時期もあった

乗り易いセーフティー型の発展が市場に及ぼした影響は大きく、イギリスでは自転車ブームが最高潮となった1895~97年にかけて、毎年およそ75万台が生産されていたと推計されている[11]。 1889年の時点では55弱だったロンドンの自転車メーカー(多くは大元の製造ではなく販売や修理のみを行っていた)の数も、1897年には390にまで膨れ上がっていた[12]。 漱石の留学はこの大流行が過ぎ去った後のことだが、彼が練習のために希望した「当り前の奴」は、こうして広まった自転車のうちの「男乗」だったろう。

図6[13]: 1898年にアメリカで出版された本の図解では、空気入りタイヤが標準的なものとして扱われている

ブレーキが無かった?

漱石が乗っていたと思われる1890年代のセーフティー型は、既に今の自転車と同じような姿をしていた。しかしながらその機械的な構造には、現代の感覚に照らすとまだ「安全」とは言い難い点があった。クランク(図6の29番)と後輪の回転が互いに直結していたため、ペダルに載せた足を走行中に止められなかったのだ。 ブレーキは前輪のタイヤに作用する手動式(図3、5、6、7参照)が最も一般的だったが、主に女性が使うものと考えられていたのか、これらを全く装着することなく、ペダルを逆に踏む「バック踏み」(back-pedaling / back-pedalling)だけで速度をコントロールするサイクリストも多かったようだ[14]

図7[15]: ブレーキのある自転車ならばフットレストに足を載せて坂を下ることができた(クランクは勝手に回り続ける)が、ブレーキが無ければクランクの回転を足で抑えて減速しなければならなかった

「自転車日記」の描写にも、漱石がブレーキを操作していたことを示す箇所はない。 「○○氏」とその友人に伴われて自転車で出かけた際、二人の間に挟まれて走っていた彼は、「クラパム・コンモン」から「鉄道馬車の通う大通り」(図2の赤線のところ)へ曲がる手前で、横から来た荷車に進路を塞がれてしまう。 ぶつかるわけにはいかないし、左右どちらかに逃げることもできない。 ギリギリになって「退却も満更でない」と思い至るものの、「逆艪の用意いまだ調わざる今日の時勢」ゆえ、彼は「仕方がない」と諦めて落車を選択する。 「逆艪」とは艪を船の前に付けて後退を可能にすることであり、この「用意」ができていないというのは、恐らく「バック踏み」に慣れていなかったことを意味している。 彼の自転車にはそもそもブレーキが無く、彼自身も「ペダル」を「踏みつける」と車輪が(?)「回転する」事実に気がついたばかりで、それを利用してスピードを落とす技術が身についていなかったのだろう。

図8[16]: ブレーキの無い自転車の場合、急坂の手前では降車するのが常識的な行動だった

漱石の自転車がブレーキを欠いていたことは、何日か前の坂道の場面からも推測できる。 彼はそこで「鞍に尻をおろさざるなり、ペダルに足をかけざるなり」、「両手は塞っている、腰は曲っている、右の足は空を蹴ている」という格好になっていたが、ブレーキがあればそれを使えば良かったのだから、「下りようとしても車の方で聞かない」状態にはならなかったはずだ。 彼のこの奇妙な「曲乗」の姿勢は、どうも本来は乗降のためのものだったらしい(図8参照)。 自転車の後輪の軸には左に「ステップ」(図6の44番)がついていて、そこに左足をかけてからサドルに跨り、また逆の手順で降りるのが普通だったようだ[17]。 「オーディナリー」型の時代から続くこうした方法を、入門者はステップに留まりバランスを取るところから学んだ[18](図9参照)。 初日に「馬乗場」で「○○氏」が放った「ペダルに足をかけようとしても駄目だよ、ただしがみついて車が一回転でもすれば上出来なんだ」との言葉は、これにぴったり合致するものだ。

図9[19]: 右足で地面を蹴って自転車を前進させ、ステップ上でバランスを保つ練習をした(これができたら次はサドルに腰かける)

どんな自転車に乗っていたかが概ね見えてくると、漱石の苦闘の様子にも納得がいく。 やっとステップに立てるようになったばかりの段階では、坂を使った特訓はあまりに無謀だった。 サドルに座りペダルを漕いで走行できるようになっても、ブレーキが無ければ急に止まることはまず不可能だったろう。 「バック踏み」だけで一気に速度を落とすための経験値[20]が、彼にはまだまだ足りていなかった。 「バタシー公園」へ向かう途中の「非常の雑沓な通り」は、だからこそ「初学者たる余にとって」「難関」だったわけだ。 「日記」に描かれたドタバタの原因の殆どは、彼自身のセンスや運動能力よりも、選んだ自転車の機械的な特性にあったのである。

サイクリストになった漱石

様々な資料から推測される漱石の自転車は、「オーディナリー」型などに比べればずっと扱い易かったものの、現代の一般的なモデルほど簡単に乗れるものではなかった。 「その苦戦」に関して当人は、「大落五度小落はその数を知らず、或時は石垣にぶつかって向脛を擦りむき、或る時は立木に突き当って生爪を剥がす」、「しかしてついに物にならざるなり」と書き記しているが、結局ダメだったというのは脚色のようだ。 鏡子夫人が後に語ったところによると、彼は「よくおっこちて手の皮をすりむいたり、坂道で乳母車に衝突して、以後気をつけろとどなられたりして、それでもどうやら上達して、人通りの少ない郊外なんぞを悠々と乗りまわして」いたらしい[21]。作中の「余」は上手くならなかったが、生身の漱石はサイクリストになっていたのだ。知人一家を訪ねた折に「いつか夏目さんといっしょに皆で」と「令嬢」から提案され、見栄を張りつつもこれを断り通そうとしたために「父君」から「サイクリストたるの資格なきものと認定」されることになったウィンブルドンへの遠乗り(彼の下宿からは約9キロメートルの行程)も、実現可能なものになっていたに違いない。

図10(Edward Penfieldによるポスター)[22]: フットレストを利用する際、長いスカートなどは回り続けるクランクとペダルに絡まる恐れがあったが、1898年頃から普及し始めた足を止められる自転車(ブレーキ装置が必須)では、この姿勢そのものが不要になった[23]

『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。

  1. 夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』(文春文庫 1994) 439, 445. 
  2. Philip, George, Philips’ Handy Volume Atlas of London, 6th ed. (London: George Philip & Son, ca. 1910)
  3. Sexby, John James, The Municipal Parks, Gardens, and Open Spaces of London: Their History and Associations (London: Elliot Stock, 1905), 17. 
  4. Albemarle, William Coutts Keppel, Earl of, and G. Lacy Hillier, Cycling (London: Longmans, Green, and Co., 1887), 129-130. 
  5. Albemarle, William Coutts Keppel, Earl of, and G. Lacy Hillier, Cycling, 5th ed. (London: Longmans, Green, and Co., 1896), ⅲ, ⅹ, 259. 
  6. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 1. 
  7. Sharp, Archibald, Bicycles & Tricycles: An Elementary Treatise on Their Design and Construction, with Examples and Tables (London: Longmans, Green, and Co., 1896), 150-153. 
  8. Sharp, 153-158. 
  9. Sharp, 159-160; Wilson, David Gordon, “A Short History of Bicycling,” Bicycling Science, 3rd ed. (Cambridge, MA: MIT Press, 2004), 25-26. 
  10. Dagg, George A. de M. Edwin, “Devia Hibernia”: the road and route guide for Ireland of the Royal Irish Constabulary (Dublin: Hodges, Figgis, & Co., 1893), 348. 
  11. Rubinstein, David, “Cycling in the 1890s,” Victorian Studies 21.1 (1977): 47-71, 48, 51. 
  12. Rubinstein, 53. 
  13. Schwalbach, Alexander and Julius Wilcox, The Modern Bicycle and Its Accessories (New York: The Commercial Advertiser Association, 1898), ⅹⅴⅰ. 
  14. Schwalbach and Wilcox, 104-108; Garratt, Herbert Alfred, The Modern Safety Bicycle (London: Whittaker & Co., 1899), 182-192. 
  15. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 120. 
  16. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 239. 
  17. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 115, 118-119. 
  18. Albemarle and Hiller, Cycling, 63, 133, 135-137. 
  19. Porter, Luther H., Cycling for Health and Pleasure: An Indispensable Guide to the Successful Use of the Wheel (New York: Dodd, Mead & Co., 1895), 30. 
  20. Porter, 43, 119. 
  21. 夏目・松岡 116-117. 
  22. この姿勢をとることができる自転車にはフットレストとブレーキが装備されているはずだが、イラストでは省略されたようだ。 
  23. “Cycle Shows in England,” The West Australian, December 31, 1898: 2. 

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絵画とデッサンで描くタンゴの世界

パリ在住の日本人画家でタンゴ・ミロンゲロ(一般的に知られているショータンゴとは異なるブエノスアイレス生まれの伝統的な<タンゴ> tango milonguero)の普及に努める女性がいます。僕も大いに感化され<タンゴ>に魅せられた者の一人です。

<タンゴ>の何に魅了されたのでしょう。おそらく最大の理由は僕に<タンゴ>を教えてくれる人が<ダンサー>ではないことです。同世代ということもあるかもしれません。半世紀ほど異国で過ごし、画家を本業としながら、さまざまなダンスを習った末に<タンゴ>に出会って魅了された、そういう来歴らいれきに引かれたのです。

そんな彼女をとりこにした<タンゴ>に僕も魅了された。まだうまくリードできないのに不遜ふそんながら、そう考えています。彼女が絵画とデッサンで描く<タンゴ>の世界に引かれたということです。70歳にしてこういう世界を知った者は仕合しあわせというべきでしょう。

…日本人も勿論もちろんアジア系なのですが、中国人や韓国人と違って、独特の内向性ないしストイック(抑制的)な面を備えています。タンゴの持つ情熱的な要素とこの抑制的な要素がぶつかると、そこに葛藤かっとうを生じます。とくに、ミロンゲロではペア同士が体を接することもあり、異性をハグ(抱擁ほうよう)することにれていない多くの日本人はその違和感をだっしないまま、タンゴから遠ざかってしまうようです。
長年パリに住みながら、過去10年ほどのあいだ何度か日本に短期滞在し、タンゴに魅せられた人々を観察してきた私は、日本美の根底に抑制された美意識を見ます。情熱を抑制しながら表現できるようになると、単なる情熱の表出とは違う一種の気品や格調の高さが生まれます。それが日本的なタンゴだといえるかもしれません。
日本人はそういう抑制された感情表現が得意だと思うからです。ただ、その抑制力が否定的に作用すると内向きになり、単なる内気になってしまいます。それを克服こくふくして情熱を表現できたら本当にすばらしい。タンゴと日本的な美意識を融合する—そんなことをめざす人が増えたら、とひそかに期待しています…
パリから見た日本のタンゴ tango milonguero より
(c) wakakoyamamoto

「ハングルの誕生」平凡社ライブラリーに

10年余り前に出版された『ハングルの誕生』(野間秀樹著、平凡社新書版)が平凡社ライブラリーから『新版ハングルの誕生』として出版された。副題も新書版の「(おん)から文字を創る」から「人間にとって文字とは何か」に変わった。

10年を経てライブラリーに入る、すごいことだと素直に思う。以前、僕の処女作を読んでいただき、ほめてくださったが、こちらは一向に読者が増えない。著者がほめるということは、僕の文章は難解なのか、と考えていた。

そういえば、新書版の原稿を読ませてもらったときも、「難しい」などと勝手なことを言ってしまった。何年もお会いしていないが、再会したら「還暦を過ぎて文章がやさしくなりましたね」と言うつもりだ。

ライブラリー版と新書版を比較すると、「あとがき」がずいぶん異なる。故人名が連ねられていて年齢を感じさせるからかもしれない。新書版にない序文は、以前より文章が読みやすい。ライブラリー版は改稿した部分も多いという。もう一度読み直してみようと思う。

頭脳流出と同調圧力

真鍋叔郎博士(1931-)がノーベル物理学賞を受賞するや、日本のメディアはこぞって日本人のノーベル賞受賞として大きな見出しで扱った。そして、日本人の「頭脳流出」問題を指摘する。

だが、待てよ、「頭脳流出」って何だろう。日本人の優秀な研究者等が日本から海外に出ていくのをいうが、なぜそれを嘆かなくてはいけないのだろう。世界に出て行ったのだから、その分野における世界貢献だと考えられないのだろうか。

真鍋博士の場合は米国籍を取得している。その理由の一つとして「社会に同調する能力が欠けている」と言ったそうだ。彼の修論に注目した米国の研究者たちがすごいと思うが、彼らはもしかしたら日本の研究環境の窮屈さや不自由さをよく理解しているのかもしれない。

まったく関係ないように思われるだろうが、雅子皇后の適応障害や眞子内親王のPTSDも同調圧力によるところが大きいのではないか。日本のなかでも皇室はとくにその圧力が大きいと想像するからである。

「縦書き文庫」という試み

2021年7月に縦書き文庫に出会った。誰でも簡単に創作小説等を投稿することができるサイトだ。運営者が開発した組版エンジンを2005年から無償で提供している。「小説とブラウザの新しい関係を模索するウェブサービス」と銘打ち、読者のページ送りにもとづく評価を採用している。その趣旨に共感し何作か投稿している

縦書き文庫の魅力は利用者が登録さえすれば、その組版エンジンを無料で利用できることであり、操作が簡単で使いやすく電子書籍リーダーがなくてもスマホやPCで利用できることだ。文学作品を無償で提供する青空文庫の作品を縦書きにして投稿作品とともに載せることで掲載作品の内容と時代を広げている。

縦書き文庫という新たなサイトの動向に大いに期待したい。既存の出版業界にはない可能性がここにあると思うからだ。下の写真は1934年に発見された宮澤賢治(1896-1933)の遺稿となった手帳の一ページ、縦書き文庫とはとくに関係ないが、タテガキの一例として載せた。

(c) t.livepocket.jp 1931.11.03 Miyazawa Kenji

「むらぎもの八戸歳々時記」とは

このブログは青森県八戸(はちのへ)市に住む「八戸歳々時記(さいさいじき)」の筆者が2012年末に投稿を始め、16年晩夏から  Facebook に投稿した記事を、筆者の了解を得て転載編集しています。筆者とは1年以上音信がとだえていましたが、21年10月初旬にFB messengerでつながりました。

記事は以下の分類に分けられ、筆者の日常生活から政治・社会批判まで多岐に及んでいます。2020年までに投稿された記事数が20を超える分類と雑題などは次のとおりです。下に編集者の好む筆者の写真約50枚を選びました。ほかにもいい写真が多くあります。

  1. 夢来里(むらさと)
  2. 今日(きょう)の歳時記
  3. 零(こぼ)れ話
  4. 壱里如(ヒトリゴト)
  5. 周(まわ)りの花木
  6. 雑題
  7. 写真イラスト

『백년한』 그 후 이야기

『대한제국 마지막 황태자 영친왕의 정혼녀』 pp. 275-297

Quote

2013년 이방자 여사의 자전 기록인 『나는 대한제국 마지막 황태자비 이마사코입니다』(지식공작소)를 만들면서 자연스럽게 민갑완의 일생을 기록한『백년한』(1962, 문선각)을 접한 나는 의외로 조선왕조말의 상황을 직접 기록한 책이 많지 않고, 그 내용도 일제에 대한 감정적 비난이 많아 소문이 사실처럼 알려져 있음도 알게 되었다. 대한제국 황실과 관련된 자료를 확인하려해도 후손들을 만나기가 어려웠고 몰락한 왕조의 후손이란 사실 때문에 직접 나서려고 하지 않는 경우도 많았다. 게다가 평생 수절하며 마지막 황태자의 약혼자로 삶을 마감한 민갑완 여사의 후손을 찾는 일은 더더욱 쉬운 일이 아니었다.

우여곡절 끝에 상하이에 망명 후 평생을 의지하고 같이 지낸 남동생 민천식137)의 큰아들인 민병휘 씨(73)를 부산에서 만났을 때의 기쁨을 잊을 수가 없다. 멀리서 보기에도 단아하고 차분하며 깔끔한 모습이 사진에서 본 민갑완 여사를 쏙 빼닮았기 때문이었다.

그녀의 비극적 삶이 일반에 알려지게 된 것은 1958년 6월 29일자 ≪동아일보≫ 5면에 실린 기사 때문이었다. ≪동아일보≫가 축쇄판138)을 내자 민 규수의 옛 기록을 발견한 한 독자가 ‘민 규수가 동래온천동에 산다’는 제보를 했으며 이강현(초대 한국기자협회장 역임, 1977년 작고) 기자가 사진기자를 대동하고 부산으로 내려갔다. 당시 열일곱 살이었던 장조카 민병휘 씨는 “키가 크고 잘 생긴 호방한 기자가 부산에 와 고모의 파란만장한 삶을 세상에 처음으로 내보였다”고 회상한다.

지난 해 연말 민병휘 씨를 통해 더욱 놀라운 얘기를 들었다. 2003년에 일본인 오구리 아키라(64, 도쿄 출생)139)씨가 찾아와 민갑완의『백년한』을 읽고 감동하여 일본의 과거사 반성 없음을 통탄하고, 일본의 양심적 지성을 깨우기 위해 한국어까지 배워가며 정현실, 추현숙 씨 등과 함께 공동작업으로 일본어 번역 출간을 10년간 준비해왔다는 것이다. 한국에서 재출간 소식에 뛸 듯 기뻐한 오구리 아키라씨는 올 3월 서울로 날아왔다.

오구리 씨와의 면담에서 그가 자비를 들여 상하이 암마시스쿨의 연감을 발굴한 얘기며, 동아반점과 유원로 삼층 주택, 여주로, 마지막 살았던 자오저우로, 보유리공원, 홍묘, 상해임시정부 청사와 남경로, 인천항, 1956년 살았던 부산 온천동과 장전동 자택, 덕수궁 중화전 등 책에 나오는 모든 곳을 수없이 답사하며 자료를 모았다는 것도 알게 되었다. 오구리 씨의 노력을 보며 일본의 과거사는 용서할 수 없지만 오늘의 우리가 근대사를 어떻게 방치했는지 통렬히 반성하는 계기가 되었다.

역사의 제물이 된 세 사람

여기 구한말 ‘역사의 제물’이 된 두 여인과 한 남자가 있다. 대한제국의 마지막 황태자 영친왕 이은(李垠 1897∼1970)과 그 약혼녀 민갑완 규수(1897∼1968), 그리고 황태자비로 정략결혼을 하게 된 일본 여인 나시모토미야 마사코(이방자, 1901∼1989)가 바로 그들이다. 강제로 얽혀버린 이들의 운명은 고독과 희생, 영욕의 고통으로 끝이 났다.

조선왕조의 마지막은 명성황후와 대원군의 갈등에서 시작된다. 지략가 대원군은 26대 임금 철종이 후사가 없자 자신의 둘째아들을 입승대통(入承大統)시켜 왕을 만들었다. 이희는 그때 열두 살이었고 훗날 고종이 된다. 대원군은 외척의 발호를 막겠다며 아버지 없는 민자영을 왕비로 간택하지만 명성황후는 대원군과 본격적으로 권력투쟁을 하게 되고 임오군란과 갑신정변을 통해 열강 침략의 빌미를 제공하게 된다. 이들의 첨예한 갈등이 없었다면 한국의 역사가 달라졌을지 모른다.

친러 정책을 편 명성황후는 1882년 임오군란 때 상궁 차림으로 장호원으로 탈출하여 한번은 죽음을 모면했으나, 청일전쟁에서 승리한 일본의 눈엣가시가 되어 1895년, 결국 야만적인 일본에 의해 참살된다. 이 사건이 없었다면 10년전 명성황후의 시위 상궁 시절 왕에게 승은을 입어 쫓겨난 엄비가 고종의 곁으로 다시 불려와 조선의 마지막 황태자 이은(영친왕)을 낳는 일도 없었을 것이다.140)

엄비는 1896년 2월 11일 가마에 고종과 이척(순종)을 숨겨 러시아공사관으로 피신시킴으로써 친일내각을 단숨에 엎는 데 큰 힘을 보탰다. 고종은 이듬해 덕수궁으로 돌아와 10월 12일 국호를 대한제국, 연호를 광무로 하여 황제국임을 선포했고 8일 후인 10월 20일(음력 9월25일) 최후의 황태자 이은을 낳았다. 이은(아명 유길)은 태어남과 동시에 황태자가 되었고 엄비는 황귀비가 되었다.

한편 이날 똑같이 태어난 닭띠 소녀가 바로 민갑완이다. 아버지는 여흥 민씨 삼방파 27세손 민영돈(1863∼1919)으로 명성황후와는 먼 조카뻘이 된다. 원래는 충청도 용정(지금의 청주)에 살던 민건호의 아들이었으나 민석호의 양자가 되어 열두 살에 서울로 올라온 총명한 인물이다. 동래부사, 주 영국·미국·벨기에공사, 승후관 등을 역임했고 육남매를 두었다. 민영돈은 아홉 살 아래인 순종 황제의 진명진사(글동무)를 맡을 만큼 황실이 신뢰하였다. 민영돈의 부인 이기돈(1869∼1928)의 집안 역시 명문가로 동생인 이기현과 이기서 등이 민영돈을 도와 고종의 밀서를 상하이로 가져가는 등 독립운동에도 앞장선 집안이다.

일본은 1907년 헤이그밀사사건을 빌미로 고종 황제의 모든 지위를 찬탈하고 7월 20일 대신들만 모여 순종 황제에게 양위식을 열고, 8월 7일에는 이은을 황태자로 책봉한다. 하지만 이은은 이토 히로부미에 의해 유학이란 명목으로 황태자 책봉과 동시에 볼모로 일본에 끌려간다. 그때가 열한 살이었다.

운명일 뿐, 미워하지 않겠다

그해 3월 14일, 민영돈의 딸 민갑완은 이미 세자비로 간택되었지 만 이날부터 열한 살 소녀의 끔찍한 불행도 같이 시작되었다. 궁중법 도에 묶여 이젠 다른 곳으로 시집을 갈 수도 없게 되었고, 일제의 끝 없는 회유와 가문에 대한 박해를 받아야 했다. 민갑완은 열한 살에 세자비 간택단자를 받고 10년간 약혼지환을 간직했지만 이미 이방 자와 정략결혼을 당하게 된 황실은 민갑완에게 신물을 돌려달라는 파혼 통보를 한다. 민영돈 집안은 풍비박산이 났다. 민갑완과 이은 280 은 열한 살 간택 때 딱 한 번 본 이후 다시는 보지 못했다. 141)

일제에 짓밟힌 억울한 운명의 민갑완은 이방자를 한 번도 미워 하거나 비난하지 않았다. 오히려 자신의 운명을 담담히 받아들이고 이해하는 고결함을 끝까지 유지한다. 민병휘 씨는 “어려서부터 자식 을 대신해 고모와 한 침대를 쓰며 온갖 귀여움을 받아 누구보다도 오 랜 시간을 보냈다. 내 기억으론 단 한 번도 일본이나 이방자 여사를 미워하거나 원망하는 말을 들어 본 적이 없다”고 잘라 말한다.

내가 영친왕의 생활을 시기하거나 그분을 미워하고 원망한 적은 한 번도 없었다. 하늘을 두고 맹세를 한다 해도 난 두렵지 않을 정도로 그분을 저주하거나 미워한 적은 없었다. 우리들의 운명이라는 것은 어디까지나 운명인 국운과 정략이 깃들어 있기 때문에 누구를 미워 하거나 탓할 수는 없다. 방자 여사도 인간적인 면에서는 행복했을 지 몰라도 국가적인 면에서는 불행했으리라고 생각된다. 약소국가 의 황태자와 결연을 맺는 것이 그리 만족스럽거나 자랑스럽지는 못 했을 것이다. 더욱 원수처럼 첩첩이 쌓인 한일 양국 간의 감정의 틈 바구니 속에 끼어 있는 그의 심정 역시 얼마나 괴로울까를 생각하 면 때로는 인간적인 면에서 동정도 가는 것이었다. -민갑완,『백년한』에서

그 점은 자전 기록 속에 비친 이방자의 심정도 마찬가지였다. 한 때 이은의 마음 깊은 곳에 민 규수가 있지 않나 고민해 본 적도 있었 던 이방자는 여인으로서 민갑완에게 동병상련의 마음을 가졌던 것 으로 보인다. 더구나 첫아들 진을 잃었고 외아들 이구마저 2005년에 후손 없이 죽음을 맞이한 걸 보면 두 사람에게 자식과의 인연은 없었 던 셈이다.

순종황후 윤 대비가 승하하신 지 2년 뒤인 1968년에는 영왕 전하의 약혼자였던 민갑완 규수가 역시 71세를 일기로 부산 동래에서 별세 했다는 소식을 들었다. 역사와 정치의 제물이 되어 똑같이 희생당 한 여인으로서 늘 미안한 마음이 들고 친근감과 동정이 생겨 한 번 만나보고 싶어 했으나 만날 기회가 없이 그분이 별세하신 것이다. 기우는 나라의 황후가 되어 평생을 혼자 사신 것이나 다름없는 윤 대비님, 마지막 황태자비로 간택되었다는 죄로 갖은 고초를 겪으며 독신으로 살다 가신 민 규수님의 비극은 내 설움과 합쳐져 나는 울 고 또 울었다. -이방자,『나는 대한제국 마지막 황태자비 이마사코입니다』에서

두 사람이 본인의 의지와는 무관한 강요된 삶을 살아가게 되면 서 느끼게 된 깊은 절망감과 안타까움도 거의 비슷하다. 민갑완은 검 은색 한복을 즐겨 입었고 알아보는 사람들을 피해 비오는 날 우산을 쓰고 외출하곤 했다. 142) 자서전 발간 후 여론의 관심 속에 1963년 영 화화된 <백년한>(동성영화사, 이종기 감독, 도금봉·김승호·최무 룡 출연)이 부산에서 상영되었을 때도 차일피일 다음에 보겠다며 자 택인 동래 온천동 근처 삼류 영화관까지 오도록 끝내 보지 않을 만큼 커다란 상처를 안고 살았다.

모든 사람들이 이제 해방이 되고 광복이 되었다고 기뻐 날뛰면서 귀국을 서두르건만 여리고 약한 여자의 몸으로 오로지 내 일신만을 감추고 피하기에 허구한 날들을 버리고 청춘만 허무하게 늙어버렸 으니 이제 고국이 무슨 의의가 있단 말인가? 내 딴에는 한국 여성의 절개와 우리 민씨 가문의 정절을 보여 세계 만방에 표본을 만들고 자 내 자신 인고의 생활을 해왔으나 이것이 조국 광복에 어떠한 영 향을 주었단 말인가? 반겨줄 사람은 아무도 없고 내게 주어진 슬픔 은 오히려 강물처럼 흘러 고독은 노을과 같이 더욱 짙어만 갔다. 슬 픔도 기쁨도 다 사라져버린 오늘…. 내게 남은 것은 다만 허탈한 인 생의 기록뿐이다.(중략) 나도 그분에게 바라는 단 하나의 희망과 소 망은 있다. 우리는 피차 이조 말엽의 인간제물이거늘 누구를 탓하 고 원망할 수는 없다. 내가 몇십 년을 살든 몇백 년을 살든 그분도 꼭 내 사후까지 살기를 비는 것이다. -민갑완,『백년한』에서

Photo 38: 1963년 민갑완의 이야기가 영화로 제작되었다. 주인공 도금봉에게 옛 머리 모양에 대해 자문 을 해주고 있는 민갑완(사진 위). 영화 <백년한>에서 민갑완이 세자비에 간택되는 장면 (사진 아래 왼쪽). 당시 부산극장에서 만든 홍보용 부채. 민병휘 소장(사진 아래 오른쪽).

Photo 39: 영화 <백년한>의 한 장면. 큰외삼촌, 동생 천식과 함께 배를 타고 조선을 떠나는 장면(사진 위).민갑완역을 맡은 도금봉과 암마시스쿨 교장 미스 샐리 역을 맡은 외국인 배우(사진 아래).

이방자 역시 정략결혼의 희생자가 된 운명을 저주했다. 한편으 론 남편에 대한 동정심과 연민도 가지고 있었다. 이들 부부의 귀국 후 민갑완은 드러내지는 않았으나 혹시나 하는 마음에 약간의 기대 를 갖고 집수리를 하는 등 준비를 했다. 그러나 영친왕은 이미 식물 인간이 되어 평생 수절의 의미가 빛을 잃게 된다.

선·일 융화의 대역이라니. 여러 가지 습관이 다른 외국에서 외국 사람들과 내가 어떻게 살아갈 수 있을 것인가. 불안과 두려움 속에 서 잠 못 이루는 고통스러운 나날이 계속되었다. 밤이면 뜰에 나와 차라리 이대로 밤의 어둠 속에 빨려 들어가 사라 져 버렸으면, 아무도 모르게 나도 모르는 사이에 죽어버렸으면 하 고 절실히 원하는 때가 한 두 번이 아니었다. 초상집 같은 슬픔과 우 울에 싸여 있는 집안을 위해서 나는 빨리 안정을 찾지 않으면 안 되 었다. 그러면서 한편으로는 나의 약혼자가 된 이은 전하에 대해 생 각이 미치지 않을 수 없었다. 그분도 자기 의사가 아닌 것만은 분명 한 사실이다. 나를 얼마나 미워하실까. 한창 응석 부릴 어린 나이에 인질과 같은 입장으로 일본에 오셨다는 말을 듣고, 또 어머니인 엄 비(嚴妃)의 최후도 보지 못했다는 말을 듣고 그분도 나와 같은 희생 자라는 친근감이 솟아오르기도 했다. -이방자, 『나는 대한제국 마지막 황태자비 이마사코입니다』에서

민갑완에게 독립운동에 적극 나설 것을 권한 김규식은 언더우드 목사의 도움으로 미국 유학을 갔을 때 로아누크대학교에 다니던 의 친왕을 보필했다. 이런 인연으로 6·25 이후 의친왕 사동궁 양관에 서 민갑완은 거주하게 된 것이다. 한 편 상하이에서 적극적으로 독립 운동에 나서지 못했지만 황실에 들어갈 교육을 10년 동안 받은 규수 로서 민갑완의 단정한 처신과 이승만의 구혼 등 여러 구혼자를 물리 친 절개를 더 큰 독립운동으로 봐야 한다는 견해143) 도 있다.

상하이 조계를 떠돌다

민갑완의 아버지 민영돈은 2년간 영국공사를 마치고 1903년 귀국한 후 1904년 11월 장례원과 시강원 업무를 맡아보았다. 1905년 강원도 관찰사를 지냈으나 가까운 친척인 병조판서 민영환이 자결하자 관 직에서 물러난다. 1907년 세자비로 간택단자를 받고 약혼을 하였으 나 파혼을 종용 당하던 와중에 1919년 1월 화병으로 사망에 이른다. 민영돈은 육남매를 두었으나 민갑완의 손위 두 딸은 첫 번째 부인인 남씨 소생으로, 큰딸은 이씨 가문으로 출가하여 무탈한 삶을 살았다. 둘째 딸은 순종의 계비인 순정효황후 윤비의 큰아버지인 친일파 윤 덕영의 둘째 며느리로 출가하였으나 부부 모두 일찍 사망하였다. 이 책에 쓰인 대로 민갑완과의 사이가 각별하여 ‘계동언니’라고 불렀으나 상하이 망명 후 출가한 언니들과의 관계는 자연스럽게 끊어졌다 고 한다.

민영돈의 첫 부인 사망 후 시집을 온 부인인 이기돈은 민갑완의 어머니로 1906년 학수고대하던 첫아들 민천식(1906∼1968)을 낳았 다. 민갑완과는 아홉 살 차이다. 민천식의 아명은 천행으로 이후 그 의 삶은 온통 민갑완을 모시는 극진함과 희생으로 점철된 파란만장 한 삶이었다. 민갑완이 두고 온 동생 민억식(1909∼1936, 아명 만행) 은 휘문고보와 경성제대 예과를 다니던 수재로 청주 한씨 가문의 처 녀와 약혼을 한 상태에서 맹장염으로 갑자기 사망하였다. 그는 병이 나자 서둘러 파혼함으로써 자신의 누나와 같은 불행을 만들지 않으 려 신변을 깔끔하게 정리하고 세상을 떠났다고 한다. 민억식의 두 살 아래 여동생인 민만순(1911년생)은 안동 김씨 가문의 김익한과 결혼 하였고 2남 2녀(승동, 석동, 영애, 영숙)를 두었다.

민갑완은 다섯 살에 사부를 모시고 천자문을 떼는 등 유교의 가 르침과 침선, 요리 등 궁중여인으로서 수업을 엄격하게 받았다. 그 러나 파혼 이후 민씨 가문이 겪은 고난은 일제 치하 어떤 가문보다도 말할 수 없이 컸다. 큰외숙 이기현144) 은 민갑완 가족에게는 상하이 망명i생활을 지탱해준 아버지와도 같은 존재였고, 김규식을 통해 민갑완과 민천식을 암마시스쿨145)에 보내 신식 교육을 시키는 등 최후의 보루 역할을 했다. 1936년 경 이기현이 상하이에서 병으로 숨졌을 때 민갑완의 절통함은 극에 달했다. 이기현의 큰아들 이강하는 동생인 민천식과 동갑이었는데 상하이에서 같이 살며 이선웅(아명), 이황웅 (아명), 이헌재(전 경제부총리)를 낳았고 독립운동에도 힘을 보탰다. 민갑완의 장례식에 이강하의 부인이 장지까지 따라갔으나 그 이후 내왕은 별로 없었다고 한다.

민갑완의 인생에서 가장 소중한 사람은 단연 민천식 가족일 것이다. 강제 파혼으로 조선 시대 말의 제물이 된 민갑완과 공동 운명 체가 된 민천식은 중동학교를 다니다 1922년 경 상하이로 망명한 후 일제의 탄압으로 암마시스쿨 마저 중도에 그만두고, 외삼촌 이기현 에게서 영어를 배웠다. 이기현은 상하이버스공사 지배인을 맡으며 민천식을 교육했다. 또한 민천식은 영국인 의사에게서 의학을 배웠으나 정식으로 의사가 되지는 못했다. 천성이 부지런하고 의지가 굳 었던 민천식은 졸지에 가장이 되어 영국공사관의 공무국에 취직을 했고 모진 고생을 했다.

이기현이 사망한 후 민갑완은 천식의 배필로 파평 윤씨 가문으로 마포 서강 일대 땅 부자의 딸 윤정순(1917∼1996)을 맞아들여 상하이에서 같이 살게 된다. 요리와 뜨개질, 바느질 등 못하는 게 없었던 민갑완은 그 솜씨를 스무 살이나 어린 손아래 올케 윤정순에게 물려주었고, 이는 며느리 박무선(67, 민병휘의 부인)에게 전수되었다. 윤정순은 힘든 살림 속에서도 민갑완을 평생 ‘국모로 모셨다’고 한다.

민갑완이 딸처럼 아끼던 민천식의 큰 딸 민병순(1936∼1984)은 시인이자 수필가로 외가의 영향으로 귀국 후 가톨릭학교 계성중학교를 다니다 한국전쟁 때 청주로 피난을 가서 청주여고를 졸업하였다. 민병순은 한전 부산 남부지점을 다니며 가정살림을 도왔으나 급 성간염으로 사망했다. 민천식의 2남 민병욱(1947∼1998)은 해군 출 신으로 건장한 체격이었지만 1남 1녀(정기, 영주)를 두고 당뇨합병 증으로 사망했다.

민갑완은 동래온천장과 마지막 임종지인 장전동에서 마지막 생을 보냈다. 6·25를 겪은 후 흰 나카오리 모자를 쓴 말끔한 차림의 민천식이 피난지 부산의 그 유명한 40계단을 지나다 길을 묻는 미군에게 발탁되어 미국공보원에 취직을 했지만 인민군 치하에서 고생 한 기억 때문에 안전상의 이유로 환도하지 않고 1955년부터 부산에 남아 살았기 때문이다. 6·25 때 북으로 끌려갈 뻔하다 광복군 이범석 장군과 같이 탄 해방 귀국선에서 의료처치로 구해준 사람이 “민선생, 동트기 전 도망가라”고 놓아주어 구사일생으로 살아난 후 서 울로 돌아갈 마음을 버린 것이다. 민천식은 국제 가톨릭 구호단체 (NCWC, 1960년대 한국전후 빈민 구호)에서 일하다 말년에는 성분 도병원 직원으로 봉직했다. 1968년 2월 5일 과로로 인한 뇌출혈로 사망했다. 홀로 3남매를 키우던 윤정순은 혈압과 당뇨로 1996년에 사망했다.

민갑완의 실질적 마지막 후예가 된 민천식의 큰아들 민병휘는 1941년 중국 상하이에서 태어났다. 1946년 환국할 때 다섯 살이었는 데 어린 시절 쓰던 유창한 중국어는 하나도 기억이 나지 않는다고 한 다. 민갑완 가족은 전쟁 통에 경기도 광주의 선산 마을에서 숨어지내 다 1·4 후퇴로 2년을 청주에서 살다 부산으로 내려갔다. 민병휘는 부친의 희망대로 군 제대 후 1966년 초대총장인 동아대학교 정재환 박사에게 발탁되어 2001년 은퇴할 때까지 평생을 동아대학교와 동 아대병원에서 교직원으로 성실하게 봉직했다.

민병휘는 “고모님은 일반 여인들과는 달리 늘 깃 넓은 흰 동정을 단 한복을 항상 정갈하게 입으셨고 남의 나쁜 점을 조금도 말하지 않 았어요. 오직 가족의 안전을 위해 평생 불교를 믿으셨고, 내가 군대 에 간 1963년도에 크게 손가락을 다치자 ‘모든 것이 덧없다’며 온천동 성당에서 김알릭스 신부에게 가톨릭으로 개종할 정도로 가족을 사 랑하셨다”고 증언한다. 갑완의 세례명은 민아가다이다. 146) 민병휘는 은행원이던 박무선과 결혼하여 1녀 2남을 두었고, 부산시 금정동 금 곡에 산다.

Photo 40: 1968년 2월 23일의 민갑완 영결식. 오전 10시 부산 장전동 고인의 자택을 떠난 장례 행렬 모습. 3대의 경찰차와 6명의 동래여고생들이 펴든 태극기 그리고 영정이 행렬을 앞섰고 수녀 300명이 뒤따르는 등 비교적 성대하게 치러졌다.

Photo 41: 동래천주교회에서 영결식을 마치고 용호동 묘지로 향하는 민갑완의 장례 행렬.

2014년 4월 16일 부산에서 다시 만난 민병휘 씨는 부산역 앞의 차이나타운 중국 음식점에서 여러 가지 질문에 답해주었다. 영어와 중국어, 한학에 능통한 민 규수가 가끔 끽연을 하였고 어린 시절 담 뱃갑에서 본 공작이나 아리랑 상표가 기억난다고 했다. 그래서인지 후두암이 걸렸지만 항상 상처부위 소독도 자신이 하는 등 깔끔한 면 모를 잃지 않았다고 기억한다. 중국 음식으로 썩힌 두부요리인 ‘쵸우 뚜우푸(臭豆腐)’를 좋아하셨지만 자신은 어리다고 주지 않았기 때문 에 1992년에야 부인과 대만 여행을 가서 먹어보았는데 냄새가 심해 도 너무 맛이 있어 고모님 생각이 나 울컥 했다고 회상한다.

꽃도 좋아하고 책 읽는 것과 금정산 자락의 금강사에 불공드리는 것, 팥밥과 불고기를 즐겼고 요리도 아주 잘해서 그 맛과 냄새를 잊 지 못한다고도 했다. 쇠고기의 부위별 세세한 조리법은 궁중음식 수 준이었다고 한다. 무를 넣은 쇠고깃국은 물론이고 닭고기카레라이스 까지 직접 조카들에게 해 먹이고 귀마개, 양말까지 털실로 짜서 모든 옷을 해 입힐 만큼 솜씨가 좋았다고 그리운 마음을 전한다. 강아지는 셰퍼드와 포인트, 일본종 찡, 온몸이 털투성이인 개 등 후두암으로 타 계하기 전까지 다섯 마리를 키웠다. 닭을 못 잡는 올케에게 “닭은 못 잡는데 먹을 줄은 아나?”하면서 손수 닭을 잡아 요리를 하는 바람에 윤정순도 결국은 닭 잡는 방법을 배울 수밖에 없었다고도 한다.

특히 민병휘 씨는 다섯 살 때 상하이에서 고모와 한 침상을 쓰며 유성기 판 5개를 트는 심부름을 했었는데 1930년대 유행가는 물론이 고 클래식과 고국의 노래를 무척 좋아했다고 전한다. 민갑완은 세간 의 추측과는 달리 어린 시절 ‘난봉’ 별호처럼 힘든 나날 속에서도 실 293 제 모습은 활달한 점이 많았다고 한다. 책을 손에서 놓지 않았는데 주로 이광수의 『사랑』, 『원효대사』와 정비석의 소설은 물론 여성지 <여원>, <아리랑> 등을 매달 구독했고, 책 대여점의 책을 모두 읽을 정도였다고 한다.

6·25 때 명동성당에 문화재급 물건들을 맡겨 두었는데 인민군 이 모두 털어갔다고 한다. 경제사정이 나빠 중국에서처럼 차를 마 시지 못해 부산의 깡통골목에서 어렵사리 약간의 커피를 구해 가끔 마시는 것을 큰 기쁨으로 알았을 정도로 고생을 했다. 6·25가 일어 나는 바람에 사회사업을 위한 모든 준비는 허사가 되었고 1950년대 는 민천식 가족에게는 생존을 위한 몸부림의 시기가 되고 말았다. 민갑완은 자서전에서 ‘동생에게 얹혀사는 미안함’을 여러 차례 토로 하고 있다.

1958년 6월 29일 ≪동아일보≫ 보도 이후 각지에서 민갑완의 절 개를 높이 평가하고 돕겠다는 독지가들이 나타났지만 이런 반응은 1년도 못 갔다. 그 해, 동아대학 권모 교수가 민갑완이 당시 온천동 방 두 칸에 월세 2천환짜리 집에 사는 모습을 보고 ‘후생주택에 이사 시켜 교육사회사업을 함께 한다’는 보도가 있었지만 웬일인지 1964 년 경향신문 10월 27일자 기사를 보면 그마저도 잃고 사기를 당한 사연이 나온다. 1963년 8월에 상영한 영화 <백년한>의 대본료 45만 원을 받지 못해 오히려 빚을 지는 등 유명세를 치른 고통도 보인다. 회고록에 말년의 10여년간 일들이 소상히 기록되지 못한 정황을 짐작할 수 있다.

예의가 깍듯하고 조용한 성품의 장조카 민병휘 씨는 고모 민갑 완의 일생을 한마디로 “이 세상에 단 한 분, 이런 사람은 있을 수 없 다”고 표현한다. “어느 누구 탓도 한 번 안 하고, 이것이 나의 운명”이 라며 “무서울 정도로 삶을 긍정한 존경할 만한 분”이었다고 회고했 다. “인생이란 파도의 그래프에서 남에게 척지지 말고 후의를 베풀라”는 말, “당대에 내가 저지른 업보는 반드시 내가 받는다”는 부친의 말이 사실이라면 “일본은 조선과 민갑완에게 저지른 과거사를 사 죄하고 일본의 죄 없는 후손이 천벌을 받지 않도록 진심으로 뉘우쳐야 할 것”이라고 눈시울을 붉혔다.

눈물의 백장미

민갑완의 마지막은 어땠을까? 김을한은 자서전『무명기자의 수기』(1984, 탐구당)에서 이렇게 쓰고 있다.

“나는 처녀인 만큼 절대 남의 집에서 죽게 하지 말고, 수의는 옛날 선비처럼 남복(男服)을 입히고 나의 영구 뒤에는 모든 사람이 나의 슬픈 생애를 알 수 있도록 구슬픈 조가(弔歌)를 연주해 달라.”

민갑완의 부탁처럼 그의 생애를 압축한 듯한 노래가 있다.

울었다고 시든 꽃이 또 다시 피어날소냐 불 꺼진 밤거리를 헤매다니는 눈물의 백장미

Photo 42: 부산 용호동 천주교 공동묘지에 있던 민갑완의 묘비석 뒷면. 1897년 9월 25일 태어났다고 기록하고 있다. 이 묘지는 개발로 인해 수용되어 없어겼고, 유골은 실로암공원 납골당에 안치되어 있다.

Photo 43: 부산 용호동 천주교 묘지에서. 큰조카 민병휘(오른쪽), 올케 윤정순(가운데), 작은조카 민병욱(왼쪽).

흘러 간 첫사랑을 희망의 등불 삼고 믿을 사람 하나 없는 낯선 타국에 장미는 외로워 불렀다고 지난 꿈이 또 다시 돌아올소냐 멀리서 들려오는 종소리마저 왜 울긴 왜 울어 지난 날 행복한 날 꿈속에 그려보며 쓸쓸하게 웃어본다 낯선 거리서 눈물의 백장미

이 노래는 가수 안다성이 불러 히트한 ‘눈물의 백장미’ 147) 란 노래 다. 당시 첫 직장 동아대학교에 다니던 민병휘 씨는 고모가 “노래가사가 자신의 삶을 꼭 닮았다”며 평소에 그 노래를 좋아했기 때문에 장례식 때 “장송곡으로 틀어 달라”는 유언을 지켜 부산지역 위수사령부 소속 군수기지사령부 군악대가 동래 온천동에서 온천성당을 경유, 장지인 천주교 용호동 묘지까지 조곡으로 연주하는 것을 들었다고 증언한다. 그 묘지는 수용되어 민갑완은 지금은 부산시 기장군 철마면 실로암공원묘역 납골묘에 민천식, 윤정순과 함께 영면하고 있다.

평소 성품대로 수의까지 직접 마련한 민갑완은 죽음을 예견한 1967년 12월 1일, “운명은 고독해도 쓸쓸한 것은 나는 싫네. 남복 입혀 화장한 후 해운대 바다 깊이 뿌려 물고기와 동무하게 해주오”라고 유언했다. 민갑완 규수, 영친왕, 이방자 여사 그리고 민영돈의 돌아가신 후예들. 부디 무거운 역사의 짐을 내려놓고 하늘나라에서 평범한 인간의 자유와 아름다운 평안을 얻길 기원한다.

김정희 (『나는 대한제국 마지막 황태자비 이마사코입니다』엮은이)


137) 이 부분부터는 본명 민천식으로 표기한다.

138) 1958년 6월 ≪동아일보≫(사장 최두선)는 창간호부터 1928년까지 신문 축쇄판을 만들었는데 한 독자가 1920년 4월28일 자 “왕세자 전하와 혼의가 있었던 상중의 민 규수” 기사를 보고 제보한 것이다.
139) 오구리 아키라(小栗章)는 아오야마가쿠인대학원 국제정치학 석사 출신으로 1973년부터 한국어를 배워 대한항공 도쿄지사 기획실을 거쳐 1987∼1989년 일본국 외무성 재토론토 총영사관 영사(문화·교육 담당)를 역임했다. 1996년부터 2010년까지 재단법인 국제문화포럼 치프 프로그램 오피서(한국어교육사업 개발)로 일하며 ‘일본고등학교 한국어교사연수회’, 일본고등학교 한국어교육네트워크에 헌신하여 주일본 대한민국대사관 공로상을 받았다.

140) 황현은『매천야록』에서 엄비를 “얼굴이 민후와 같고 권략도 그와 같았으므로 입궁한 후 크게 총애를 받았다. 국정을 간섭하고 뇌물을 좋아하여 민후가 있을 때와 동일하였다”라고 평했다. 이를 통해 엄비가 보통 이상의 인물이었음을 알 수 있다.

141) 민갑완의 삶을 다룬 여러 저술이 마치 이은과 이방자가 민갑완을 외면하고 안 만나 준 것처럼 쓰고 있으나 귀국 후 이은의 건강 상태 등을 고려하면 만나고 싶어도 만날 수 없는 상태였다.

142) 혼다 세스코,『비련의 황태자비 이방자』(1989, 범우사).

143) 안천,『대한제국 황통쟁투사』 (2009, 교양과학사)에서 다소 격정적인 견해를 내고 있 다. 이승만이 양녕대군파로서 자신을 왕으로 생각하는 것은 잘못된 처신이라는 것이다. 입헌군주적 발상은 매우 이례적인데, 민병휘는 “외국 유학으로 매우 개방적 태도를 지닌 이승만이라면 청혼을 할 수도 있었겠다”며 고모로부터 이승만의 청혼 사실을 들은 적이 있다고 증언했다.

144) 1902년, 의양군 이재각(1874∼1935)의 영국 국왕 에드워드 7세 대관식 참석을 기록 한 수행원 리종응의『서사록』에 주영 공사 민영돈과 이기현(부인 이기돈의 동생)이 배웅 하는 장면이 나온다. 이기현은 민영돈의 비서였을 뿐만 아니라 유능한 통역관이기도 했 다. 1906년에 고종의 밀서를 가지고 민영돈을 수행하여 상하이로 가서 독립을 호소했으 며, 영어 중국어에 능통한 인물이었다.

145) 오구리 아키라가 상하이도서관에서 발굴한 학교 연감에 의하면 미국인 교장 한나 샐리(Hannah F. Sallee)가 운영하는 암마시스쿨은 초중 고대학을 모두 갖춘 교육기관이었다.

146) “임종 하루 전 영세를 받았다”는 기록에 대해서는 민병휘 씨는 “원래 외가쪽이 가톨 릭에 많은 신부와 수녀를 배출했기 때문에 개종 권유를 오랫동안 받아왔다. 임종 4년 전 후두암이 생겼고, 1963년 이후 개종했다”고 전한다. 불교든 점사든 가톨릭이든 민갑완에게는 ‘종교는 가족에 대한 무조건적인 사랑 그다음 순위’였다.

147) <비나리는 호남선> B면 두 번째 곡. 오아시스레코드, 1963년 발매. 가수 안다성은 1931년 충북 청주 출신. ‘사랑이 메아리칠 때’ ‘바닷가에서’로 유명한 지성파 가수로 지금의 경희대, 당시 신흥대학 영문과 졸업 후 성악가 마리안 앤더슨을 좋아하여 예명을 지었다고 한다. 본명은 안영길. 매력적인 부드러운 저음으로 부른 이 노래는 박춘석의 작곡으로 민갑완이 가장 좋아했던 곡이다. 안다성은 팔순을 넘은 나이에도 공연무대에 선다.

Unquote

Oguri Tadamasa 1827-1868

小栗忠順に関心を抱いたのは最近のことで、以前は歌舞伎の小栗判官ぐらいの知識しかなかった。小説「福澤諭吉」(岳真也著)を読み、徳川幕府の幕僚として福澤諭吉や勝海舟とともに咸臨丸に乗り、ワシントンで米国政府と交渉し、後に横須賀造船所を設立したこと、勝海舟と対立関係にあって、福澤が彼を慕っていたことなどを知った。

明治政府軍との徹底抗戦を主張した小栗が、勝海舟や西郷隆盛の主導した<無血開城>への時流のなかで、いわば当時の政界を去って帰農したにもかかわらず、斬首刑に処せられたと知り、その理不尽さに憤り急に親近感を抱いたのである。というより、一方的な明治史観を押し付けられることに強い違和感を覚えた。同姓という親しみもなくはないが、まったくの偶然である。

Quoted from the first chapter of “the Meiji Restoration Losers” written by Michael Wert (Harvard East Asian Monograph 358).

On the morning of the sixth day of the fourth intercalary month in 1868, imperial troops escorted Oguri Tadamasa from his temporary imprisonment to the banks of the Karasu River in Mizunuma Village. Typically, capital punishment for a high-ranking samurai, especially a direct vassal of the shogun, involved ritual gesture of suicide before an executioner’s coup de grace. That day, however, Oguri was forced to bend over, hands tied behind his back.

Besides calling the man who dared push his body forward with his feet a “disrespectful lout,” Oguri’s final words were a request to let his wife, daughter-in-law, and mother go free. A low-ranking samurai struck Oguri’s neck not once but three times before his head dropped unceremoniously into a pit. A villager who witnessed the execution as a boy recalled, “What was most impressive in my mind was how white the soles of his tabi appeared when the body fell forward.”

This scene weighs on Oguri’s commemoration, coloring explanations of his career up to the moment. It marks the origin of his commemoration both geographically, as ground zero for the historical memory about him, and temporally–almost immediately after his execution, former colleagues became his first apologists, protecting his legacy in death though they could not help him in life. The goal of this chapter is to impart a historical understanding of Oguri and clarify why memory activists and supporters found him a compelling figure worthy of appropriation.

小説の冒頭のように鮮やかな光景が浮かぶ。著者のいう memory landscape (仮に「記憶の風景」と訳しておく)の一端がこれか、と思わせる書き出しである。