Why Korea?

1970年ごろから「韓国」「北朝鮮」に関心を持ってきました。以下は97年に文章化したものです。当時、自分が韓国(朝鮮)という地域と人びとにひかれるようになったのは、少年Aとの出会いがあったからだと考えていたようです。20年近く経った現在、違和感を感じる部分もありますが、あえてそのまま掲載します。

東北の風景

東京の郊外で少年期を過ごした僕にとって、高校時代の二年間を過ごした東北の地方都市――水田のなかを灌漑用水が流れ、遠くになだらかな北上高地の山なみがつらなる風景――は別世界だった。

単に都会と地方という違いではない。外部の者が入り込むことを阻む、はっきりと壁のようなものを感じさせる違いだった。僕がいくら入り込もうとしても入ることができない。東北の風景と人びとは、そのような存在だった。人びとの容姿はさほど変わらないが、仔細に見ると顔の形や着ている物の色合いなどが違うように見えた。

彼らのことばは外国語のように響くことがあったし、語彙やイントネーションの違いに驚かされることもあった。僕の東京弁が彼らのことばと違うので、笑われることもあった。そんな体験をかさねながら、僕は東京をなつかしく思うと同時に、彼らにとって自分が「よそ者」であることを感じていた。

あるいは、当時の僕は東北の風景のなかに入りたくなかったのかもしれない。東京にいたときも、仲間はずれにされたときなどに、自分がまわりの人たちと違うことを感じたが、さほど意識することはなかった。だが、東北にいるあいだは、自分が「よそ者」であることを常に意識させられた。

少年A

Aは、東北地方の岩手県にある農村で生まれ育った。僕は、15歳のときに東京から岩手県の高校に転校し、そこで彼と出会った。同級生のふたりは、健康上の理由で約一年のあいだ体育の授業に参加できなかった。

ほかの生徒がサッカーやラグビーに興じているのを見学しながら、僕たちはいろいろな話しをした。夏は運動場の土手の草いきれを感じ、冬は木造の体育館の一角で手の甲をさすりながら時空をともにするうちに、ふたりの親密感は増していった。

Aの家では、彼が中学に入ったころから、一年の大半を出稼ぎで過ごす父親がたまに帰ってくると、母親とのあいだに口論が絶えなくなった。それまで喧嘩などしたことのない両親の関係の変化にとまどった彼は、しだいに家で過ごすのを嫌うようになる。

Aと家との距離感は、彼が高校に入るころになると、かなり開いていたから、いつか東京に出たいと考えていたようだ。だから、東京から来た僕に親近感をもったのだろう。

だが、彼が僕に近づいたほどには、僕は彼に近づこうとしなかった。いま、そのことが悔やまれる。そんな僕は、18歳の春に東京にもどってしばらくすると、Aのことをほとんど忘れてしまった。

三年ぶりの都会生活に僕は浮き足だっていたはずである。岩手にいるあいだ感じていた疎外感をうち消そうとしたが、東京に移ってしばらくすると、そこに入ることができない自分を感じるようになった。それが頂点に達したのは、大学に入った年の夏休みだった。

そのころ東京の大学に入っていたAがひょっこり訪ねてきた。久しぶりに彼と話し合うあいだに、僕は、あんなに嫌がっていた東北の風景や人びとをなつかしく思っている自分に気づいて驚いた。東京にもどってから感じていた「よそ者」意識が、僕を岩手に近づけたのである。

白い犬

Aのいなかの家では、彼が中学生のころから一匹の犬を飼っていた。彼と再会した翌年の夏、その犬が狂犬病にかかった。ちょうど彼の家に滞在していたAと僕は、近所の人びとの要求にしたがって、その犬を保健所に連れていくことになった。

だが、人一倍犬をかわいがっていた彼はそれをためらった。自分が愛着をもっている小動物を、他人の手で殺されるのが厭だったのである。

ふたりで相談した末に、ある雨の夜、僕たちはやせ衰えた狂犬が吠えたり噛んだりできないようにして麻袋に入れると、山のなかに入っていった。さほど深い山ではないが、夜は一面の闇である。夜露にぬれて冷えきった手で触れた犬の体が、なまめかしく温かったことをありありと覚えている。

僕たちは一夜を明かすあいだに、麻袋に入った生物をどうするか話し合った。睡眠不足で変に頭が冴えたように感じながら、ふたりがたどりついた結論は、自分たちの手で狂犬の命を断つことであった。機械的に殺すことをこばみつづけるAにとっては、それが最善の方法のように思われたのだろう。僕も、彼の考えに同意した。

二日めの朝、最初の晩とおなじように狂犬を袋につめて棒に吊るすと、僕たちは某の両端を手で支えながら、山道を歩いた。正午近くまで歩きつづけたろうか、ふたりとも二の腕に痛みを感じはじめ、足に豆ができて、それ以上歩くのがつらくなった。

麻袋をおろして道端に座りこみ、登ってきた方向を見おろすと、深く切りたった断崖が目に入った。そのときふたりで話し合った訳ではないが、僕たちは半ば衝動的に棒を外して麻袋の両端をつかむと、崖っぷちに向かってありったけの力で放り投げた。

ふたり以外に誰もいない山あいには蝉の鳴き声だけが響き、シーンとした谷底の方から、麻袋が岩に当たった鈍い音と砕け散った小石がほかの岩に当たる音が低く響きわたった。

ふたりは、しばらくボーッとして仰向けに寝ころんでいたが、日没前には山をおりてAの家にたどりついた。家の人から犬の行方を尋ねられると。あらかじめ打ち合わせておいたとおり、保健所に連れていく途中で逃げ出し、二日間さがしまわったが見つからなかったと答えた。

まわりの者は誰もそれを信じなかったが、それ以上問いつめることもなかった。それから数日後、私たちは東京に帰った。東京にもどってから、狂犬とはいえ一個の生命を断ったことが、ふたりの頭を離れなかった。それが原因のすべてだったとは思わないが、ふたりのあいだはしだいに疎遠になっていく。

韓国(朝鮮)の風景

なだらかな山なみと、水田地帯をゆったり流れる川―高校生のAが土手に寝そべって空を見上げている。そんな風景がどこかで韓国(朝鮮)につながっているように思う。

彼が在日韓国(朝鮮)人であった訳でもなく、その風景にことさら韓国(朝鮮)的な風物が配されていた訳でもないが、ふたつの風景にどこか共通するなつかしさを感じる。

僕がはじめて韓国を訪れたのは1973年の冬、23歳のことであった。いまでは記憶もぼんやりしているが、飛行機が遅延したためだろう、夜遅い時間にソウルに着いたので、市内まで行かずに空港近くの韓式旅館に泊まった。

多少ことばは理解できたが、はじめての海外旅行の第一夜に、いきなり予約なしの旅館に入った。その不安を異国にいる興奮のなかで、オンドルの床の固さと暖かさを確かめたことを覚えている。

翌朝、温度差でくもったガラス窓を開けると、外から凍てつくような冷気が流れ込んできた。頬に痛みを感じるほどの冷気を感じたのは、岩手で過ごした少年期以来のことだった。

まだ舗装されていない林道のような道を見ていると、白いパジ・チョゴリを着た老人が、ゆったりした足どりで歩いてくるのが目に入った。老人が向かう道の先には、なだらかな山なみが窓枠からはみ出しそうに迫っている。

あれが僕の韓国(朝鮮)風景の原画であろう。約25年経ったいま、そう思う。あの風景が、少年時代に焼きついた東北地方の風景につながっている。そう思われてならない。

ふたつの風景

友人とふたりで小動物の命を断ったことからくる重圧感が、時間とともに僕のなかで拡大していき、後悔することが多くなった。それと併行するように、僕は韓国(朝鮮)人に対する日本人の意識に関心を抱くようになったのだと思う。

個人的な罪責感と、自分もその一員である日本社会のもつ韓国(朝鮮)人に対する差別観が簡単にむすびつくとは考えないが、僕のなかでは、白い犬の殺害とそれに続くAとの疎遠感が、これらふたつをむすびつける役割を果たしたように思う。

個人的な罪責感と社会的な差別観をむすびつけたもの。それは、疎外感ではなかったろうか。僕のなかで、日本の東北の風景と韓国(朝鮮)の風景がつながったのは、疎外される側の被害者意識と、疎外(排斥)する側の加害者意識がかさなったからであろう。

疎外というと、ふつう疎外される側だけに注目しがちであるが、疎外する側の意識も大いに関係すると思う。僕の場合、疎外感と罪責感がかさなったからこそ、ふたつの風景がむすびついた。いまは、そんなふうに考えている。

日本海(東海、トンヘェ)の向こうにある漠とした方向にすぎなかったものが、時間の経過とともにぼんやりした風景になって僕のなかにイメージとして定着し、少年期に刻まれた東北の心象風景につながったのであろう。

韓(朝鮮)族の異名である白衣族が白い犬につながり、雪をかぶった東北の山なみにつながったとも考えられる。

風景をつなぐもの

僕の心象のなかで日本の東北と韓国(朝鮮)の風景がつながっている。ふたつの風景をつなぐ要因として、罪責感と差別観、これらふたつをむすびつける役割を果たしたであろう疎外感について考えたが、それが妥当かどうか自信はない。

ふたつの風景のつながりがどうなっているのか。それをさぐっていくことが、僕のこれからの課題だと考えている。

約二ヵ月前の九月、群馬と長野の県境近くにある万座温泉のホテルで日韓の若手研究者のグループとともに合宿する機会を得たことが、僕に疎外感について文章化するきっかけを与えてくれた。

二日間の合宿で、僕がもっとも強く感じたのは参加者のあいだにある親密感であった。日韓双方の参加者にとって第二言語である英語を介した対話を可能にしたのは、親密さを土台にした一体感であり、単に共通語と共通の専門領域があったからではない。

親密感や一体感は、誰かの強制によって作られるものではないし、場所と時間を共有すれば自然に生ずるものでもない。主催者の企画に応じて参加した人びとのあいだに何らかの共有感覚があってこそ生まれるものであろう。

あの合宿にはそんな共有感があったように思う。それを持続してほんとうの一体感とするためには、今後さまざまな形の共同作業が必要だと思うが、そうするための土台となるようなものがあったように感じた。

親密感が疎外感の対極に位置するものだとすれば、対極にあるふたつのものはどこかでつながっているはずである……硫黄で卵黄色になった温泉場の土や岩肌、湯治場らしい赤茶いろの屋根、まわりを囲む上信越の山やま、これらの光景が少年期の東北の風景につながるのかもしれない。

万座と東北の風景が、それぞれ親密感と疎外感という心象に対置されるとすれば、ふたつのイメージが対極にあるからこそつながることができる。僕のなかにある日本の東北と韓国(朝鮮)の風景も、時間と場所を超えてこんなふうにつながっているのかもしれない。 [1997/11/19]

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