小説や随筆を書くことは誰もが創作行為として認めるが、その小説を原作またはその翻訳文から翻訳または重訳する行為はどうであろうか。多くの人はそれを創作とは認めないだろう。最近はインターネットを介して簡便に翻訳することができ、新聞や雑誌記事の場合はある程度まで脈絡の通じる翻訳文が製造されるため、翻訳という行為の創作性は減ずる傾向にあると考えることもできる。
翻訳の創作性を考える手がかりとして、着想や構想のない状態、いわばゼロからの執筆を<全的な創作>と考えることにする。これに対しテーマや課題を与えられた場合の執筆を<部分的な創作>と呼ぶ。このように区分すると、読書感想文や評論、最近増えてきたフォトエッセイなどは<部分的な創作>になる。絵画におけるモデルの存在をどう捉えるかという問題はあるが、写実(主義、派)という言葉があるとおり、それは創作の対象として理解され、部分的な創作とはみなされないようだ。
また、翻訳に直訳と意訳という二つの訳し方があるとされている。直訳は翻訳される文章や構文に沿って訳すことをいい、意訳は翻訳する言語と文化に沿って読み手が理解しやすいように訳すことをいう。こういう二つの翻訳方法があるとする考え方について疑問を呈することもできるが、ここでは翻訳に直訳はあり得ないということだけを指摘しておく。一見、絵画における写実や具象と直訳を比較できると考えることができそうだが、まったく異なるものであって比較できない。意訳と抽象(派)を比較できないのと同様である。ただ、翻訳される文章が写実的であれば、翻訳する文章も写実的になるべきだということは言えると思う。
翻訳を考える際にもう一つ考慮すべきことがある。原文と翻訳文の言語間の距離によって翻訳の方法が大きく左右されることだ。一般的に翻訳という行為について語ることはできるが、それだけでは偏頗な翻訳論に陥りがちである。日本は19世紀から欧米の言語と日本語の関係をもとに翻訳について考えてきたが、それだけでは不十分だ。たとえば、英語と日本語に関する翻訳論と韓国語と日本語に関する翻訳論では、翻訳することの一般的な意味合いが同じであっても、その方法や内容が違う。英語と韓国語では日本語との距離(構文の組み立てや語彙の類似性や近さ)が相対的に大きく違うからである。日本語と多言語間の翻訳について十分検討する必要がある。
内容や文章の記述スタイルによって翻訳しやすいものと翻訳しにくいものがあること、翻訳できない内容があることなど多様な観点を取り入れることも必要だ。同じ原文について複数の人が同じ言語に翻訳しても、必ずしも同じ翻訳文にならないと考えることも必要かと思う。一つの文だけでなく、文章全体となれば、その違いは決して小さくないということである。二つの言語の単語や語句のあいだに一対一対応が成り立たないように、翻訳文と原文のあいだにも一対一対応はあり得ないと考えるべきである。多対一対応というわけでもないが。