零れ話: カンショウ[感傷]

人生に希望を見失うと、とかく感傷的になりがちである。
でも、感傷性自体は決して悪いことではないと思う。
それは、悲しいときに泪を流すことによって気持ちが晴れるように、荒廃した生活にとっては一つの潤いでもあり、救いともなるのだろう。
また、特定の作家に共感を覚えて耽読し、その世界が自分の人生を予見させているように映ったりすることもある。
人間にはこのような詩(時)をもつことも必要だが、これにあまりにもとらわれると、ある場合には障害となることもある。
「人生とは、人と触れ合うこと」
触れ合う人によっては光を与えられたり、日陰に追い込まれたりする。
しかし、その度に、何かに気づき、得ることがあったはずでは…
“思い通りにならないのが人生”だが、一歩いっぽ踏み出し、誰かと“結び目”を巡らしてゆきたい…

One thought on “零れ話: カンショウ[感傷]”

  1. 写真をよく見ると、右下に 1965 とあり、左上に校章のようなものがある。おそらく誰かの手帳だろう。1965年、僕は岩手県立高校に在籍していた。東京から転校した少年はまさに賢治の「風の又三郎」だった。当時の日記や大事にしていた顕微鏡はみな処分したが、北上川沿いの田畑の光景は鮮やかに記憶している。それにまつわるものが、ときおり僕を感傷的にする。なつかしい感情の香りが人を感傷で包んでくれるのだと思う。

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