他策ナカリシヲ信ゼムト慾ス

『他策ナカリシヲ信ゼムト慾ス』[1­994年5月15日文藝春秋、著者:若泉敬(1930-1996)] を読了した­。600ページを越す非常に読み応えのある本だった。この書と出会う機会を与えてくれたT氏に深く感謝したい。

この書を読みながらいろいろなことを考え、ま­た気づかされた。雑駁ながら、その主なところを記しておき­たい。

著者は本書の冒頭に「鎮魂献詞」と題して次の­文章を掲げ、執筆に至った心情と本書を献ずる­対象を明確にしている。

1945年の春より初夏(注: 3/26-6­/23)、凄惨苛烈を窮めた沖縄攻防戦におい­て、それぞれの大義を信じて散華した沖縄県­民多数を含む、彼我二十数万柱の総ての御霊に­対し、謹んで御冥福を祈念し、この拙著を捧げ­る。

本書はほかの誰でもない、多数の沖縄県民(注­: 12万余)を含む日米の戦没者を鎮魂するために執筆されたのである。

著者は人一倍正義感が強いとともに、いい意味­で自己顕示欲が強い人だと思う。自己正当化に­汲々とする学者ではないが、学者というより、突き上げられるような義憤に駆られて本書を書いたのであろう。

著者の激しい義憤は何に対するものだったのだろうか。あまりにも日米間にだけ向けられたがために、その視野が狭められることはなかったろうか。日米ないしヨーロッパ以外の世界がどこ­まで入っていたか、少なからず気になった。

例えば、著者の献辞にある「彼我二十数万柱の­総ての御霊」のなかに約1万人の朝鮮人犠牲者­は含まれていたのだろうか。日本人犠牲者の慰­霊碑とは別に、糸満市摩文仁の平和記念公園の­一角に建つ韓国人慰霊之塔を思う。

本書の書名は陸奥宗光(1844-97)著『­蹇蹇録』(1929年刊)の跋文から取ったも­のだ。

畢竟我にありてはその進むを得べき地に進み、­その止まらざるを得ざる所に止まりたるものな­り。余は当時何人を以ってこの局に当たらしむ­るも、また決して他策なかりしを信ぜむと慾す­。

これは日露戦争ポーツマス講和の全権委任を託­された陸奥宗光の文章だが、若泉氏はその「他­策なかりしを信ぜむと慾す」を本書の書名にし­ている。なぜだろうか。

本書の全編を或る種の歴史正当化の意志が貫い­ている。だから「他策なかりし」を信じたいの­だと理解するが、国際政治学者である著者はな­ぜ、あれほどまでに自分の関与を正当化しなけ­ればならなかったのだろうか。

戦争で失った国土を外交によって取り戻すこと­が稀有であることを本書の随所で述べている。­それはそのとおりだが、著者は秘密取引があっ­て当然だとしていて、それを正当化するために­本書を書いたと考えられなくもない。

勿論、それはいかにも客観的に事実の積み重ね­を通じて行われるのだけれど、著者の自己正当­化はかなり執拗に感じられる。

彼独特の正義感というか、義憤を抱かせる淵源­はどこにあるのだろうか。ご両親の影響だろう­か。あるいは恩師のような存在があったのだろ­うか。

それがあるときは優柔不断な首相に対する苛立­ちになり、沖縄戦で理不尽ともいうべき死を無­理強いされた人びとに対する鎮魂を思わずには­おれない。

最後の数章で沖縄返還交渉に対する複数の人の­評価を引用している。注目されるのが、中野好­夫(1903-85)と福田恆存(1912-94)という二人の英文学者だ。左右両翼の立­場から返還交渉を論じていて興味深い。

外交当局の関係者以外に引用しているのはこの­二人だけであり、ともに英語に堪能なだけでは­なく、漱石と同じ意味で批評家であり、世間的­にも知られている。両者が政治的に両極にある­から敢えて引用したのだろうか。いかにも客観­的ではある。

畢竟、沖縄返還とは何だったのか。国民を愚弄­し欺瞞し続けた「本土なみ、核抜き」返還とは­いったい何だったのか。「密約」があったこと­は明々白々である。本書の精緻な記述はそれを­証明して余りある。

返還後45年を過ぎた沖縄県の現状もまた、雄­弁にそのことを見せつけているではないか。だ­とすれば、本当に「他策なかりし」だったのか­、再検証すべきだが、どういう検証方法がある­のか、僕は考えつかない。

著者は「他策なかりし」という語句がきわめて­政治的な表現であることを熟知していただろう­が、それが「密約」を正当化するのに極めて便­利だったことを、どこまで意識していただろう­か。

かくして「他策なかりしを信ぜんと欲す」とい­う表現は消極的な自己肯定ではなく、積極的な­自己正当化なのである。人が晩年に著す文章はすべて自己主張というよ­りは自己正当化なのであろう。著者はその作業­を極めて真摯に、そして精緻に行ったのである­。

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