『百年恨』その後の話

2013年に李方子女史の自伝『私は大韓帝国最後の皇太子妃、李方子です』(知識工作所発行)を制作しながら、自然とカブァンの生涯記録『百年恨』(文宣閣発行)にふれた私は、朝鮮王朝末の状況をそのまま記録した書籍が思いのほか少なく、その内容も「日帝」に対する感情的な批難が多く、風説が事実のように伝わっていることを知った。

大韓帝国の皇室に関する資料を確かめようとしても、後裔に会うことがむずかしく、没落した王朝の後裔という事実のために直接出てこようとしない場合が多かった。生涯結婚することなく最後の皇太子の婚約者として一生を終えたカブァンの後裔をさがすことはなおさら容易ではなかった。

紆余曲折の末に上海に亡命したあと、生涯姉を支え、ともに過ごした弟の閔千植(ミンチョンシク)の長男である閔丙輝(ミンビョンフィ)氏(73歳)にお会いしたときの喜びを忘れることができない。端正で落ち着いたようすが、遠くから見ても、写真で見たカブァンを彷彿とさせたからだ。

カブァンの悲劇的な生涯が一般の人に知られるようになったきっかけは、1958年6月29日付け東亜日報の5面に掲載された記事だった。東亜日報が縮刷版を出した後、カブァンの昔の記録を発見した1人の読者が「カブァンがプサンの東萊温泉(トンネオンチョン)洞に住んでいる」という情報を提供し、李ガンヒョン記者(初代韓国記者協会長、1977年死去)がカメラ記者を同行してプサンに下った。

当時、数えで17歳だった甥っ子の閔丙輝(ミンビョンフィ)氏は「背が高くハンサムで豪放な記者がプサンにやって来て、叔母の波乱万丈な生涯をはじめて世に送り出したのです」と回想する。

2013年末、閔丙輝(ミンビョンフィ)氏からさらに驚くべき話を聞いた。2003年に日本人の小栗章氏(64歳、東京出身)が訪ねてきて、カブァンの『百年恨』を読んで感動し、日本に過去の歴史に対する反省がないことを慨嘆し、日本の良心的な知性を覚醒させるべく、韓国語まで学んだというのだ。

鄭玄実さんや秋賢淑さんの協力を得て日本語の翻訳出版を10年も準備しているという。韓国で再出版されるという知らせに小躍りして喜んだ小栗氏が14年3月、ソウルに飛んできた。

小栗氏とのインタビューを通じて、彼が自ら上海アンマシスクールの学校年刊を発掘した話、東亜飯店と愚園路(ユーユィルー)の三層住宅、宝裕里(ボユリ)、最後に住んだ膠州路(チョーズールー)、宝裕里(ボユリ)公園、虹廟(ホンミョ)、上海臨時政府の庁舎と南京路、仁川港、1956年に住んでいたプサンの東萊温泉(トンネオンチョン)洞と長箭(チャンジョン)洞の自宅、徳寿宮の中和殿など、自伝に出てくるすべての場所を何回か訪ね、資料を集めたこともわかった。

同氏の努力を知り、日本の過去史を許すことはできないが、今日、私たちが現代史をいかに放置していたか、大いに反省させられた。

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