エリザ・イェイツ・スクールに入学

キム博士の言葉は、泣きながら過ごしてきた私に警鐘を鳴らしてくれました。博士にお会いした3日後、私とチョネンは博士の紹介で学校に行きました。晏摩氏(アンマシ)スクール[1]という、アメリカ人のセリ夫人[2]が経営する大きな学校で、中学校以上の教育課程を持っていました。ピアノが12台もある音楽室があり、大きな図書館もありました。

キム博士が「愛国烈士の子女」が亡命してきたと伝えていました。アメリカ人の女性校長は私たちを丁重に迎えてくれました。中国語を個人的に指導してくれる先生も手配してくれました。【写真:Eliza Yates School、H.F. Sallee】

私は中等部に入り、チョネンは初等部に入って学ぶことになりました。でも、しばらくはまるでカカシ同然でした。他の生徒が教室に入れば入り、出るときはあとについて出る、それしかできません。

中国語の個人指導はとても効果的でした。何よりも、知らない国で暮らしていて言葉が通じない苦しみほど辛いことはありません。生まれ落ちたときからの聾唖者(ろうあしゃ)ならともかく、そうでない私があらゆることに目つきと手ぶりで応じるのですから、本当に気が滅入りました。

韓国にいたときも、中国行きが決まってからひそかに中国人を奥の部屋に呼んで3-4ヵ月教えてもらいましたが、使おうとしても思うように言葉が出ませんでした。それで、個人指導をしていただくのも主に筆談でした。文字を書いてから音を習ったのです。

いつしか冬も過ぎ、春が来ました。私の上海語もかなり上達し、簡単な言葉なら話すことができるようになりました。時間があるときは中国の怪談の本を読んだり、お手伝いさんと話したりしてみました。

叔父がバス会社のマネージャーだったので、3ヵ月のホテル生活を整理し、家を借りて暮らすことができました。フランス租界の保裕里(ポユリ)というところにある質素な家で、二人の叔父と叔母にチョネンと私の5人で暮らしました。言葉がよく通じないからとお手伝いさんを置いたのですが、今ではかなり言葉も通じるようになりました。【写真:ポユリ公園】

ある日、人を介して韓国から便りが届きました。上海に到着してからも、ときどき手紙だけはやり取りしていました。これまでは私たちに心配をかけまいと、安否を尋ねる簡単なものでしたが、今回の手紙で家がたいへんな状態になったことを知らされました。

私たちが上海に渡って3ヵ月過ぎてから、刑事たちが次々と家に訪ねてきたそうです。娘をどこに隠したのか、早く手紙を出して呼んでこいなどと、あらゆる狡猾(こうかつ)な脅迫(きょうはく)をしたといいます。

それでもあきたらず、交替で母方の祖父と母を投獄し、苦しめるのだそうです。母は私のことで、祖父は叔父たちのことで、このような目に会っているのでした。

[1] Eliza Yates School、1940年(中華民國曆29年)発行、許晩成編「上海學校調査錄」(Directory of Schools and Institutions in Shanghai)には「晏摩氏女中、外灘7號大廈4樓、應美瑛校長、敎會立」「卽前省立松江中學(松江高級中學、靜安寺路591弄141號)」とある
[2] Miss Hannah Fair Sallee、1915年から25年まで10年余り校長を勤めた

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