インチョンから大連へ

on

いつまでも泣きつづける私が、チョネンと叔父になぐさめられて気持ちをとり直したとき、すでに祖国の山河は見えなくなり、三日月だけが南の空にかかっていました。1920年7月22日[1]、夏なのに船上はきょうも涼しくさわやかでした。

大海原に姉と弟の二人だけが立ちつくしていると思うと、寝てもさめても泪(なみだ)とため息ばかりの毎日でした。若いころの華やいだ夢はどこかに消え、一生で最も華やかなはずの青春をこうして泪(なみだ)で送らなければならないと思うと、身が震える思いでした。

日本の侵略さえなければ、国がほろびることもなかったでしょう。わが民族も、他国の圧迫のもとで暮らすことはなかったはずです。私も両親に孝行し、国に忠誠を尽くして、隣人と仲よく幸せに暮らせたのではないでしょうか。

自国を売り、食いものにした者たちと、他国をつまみ食いした盗人(ぬすっと)たち。彼らのために、国や民族が辛苦をなめさせられたと思うと、歯がくだけるほどの怒りがこみ上げてきます。

母は今どこまで行ったろうかと心配でなりませんでした。太りぎみの母が一人で帰る哀しい足どりは、さぞかし重かったでしょう。なぜ私は、これほどの親不孝をしなくてはならないのでしょうか。目をとじて、もの想いにふけっていると、ふと一篇の詩が浮かんできました。

どんなに長く生きようと青春は一度あるのみ
幼いときの誓いを守って追われる身となり
偉人の伝記をよく読み父母に孝行をつくし
傾いた家門に光を照らし代々伝えようとした
なのに父は亡く、母と生き別れに
この運命をただ泣いてすごすしかないのだろうか

泪(なみだ)がまた頬(ほお)をぬらしました。私をはぐくんでくれた祖国と、これで永遠の別れになるとしたら、あまりにも自分があわれです。異国をさまよう魂となって、千万劫(こう)年も一人で行くのかと思うと、胸が引き裂かれそうな孤独感に襲われました。

3-4日泣きあかしている間に大連に着きました。大連は中国の領土ですが、日本の租借地になっていて、中国人より日本人が大勢いました。

私が乗った共同(コンドン)丸は、積荷をおろすために大連で1日停泊しなくてはなりませんでした。船客は全員おりて、近くのホテルに泊まりました。私たちも仕方なくホテルに泊まることにしました。

羽織姿の日本人が大勢いて、たまに出会うシナ服を着た土地の人は元気がないように見えました。弱小国の者はどこへ行っても羽をのばせないのかと思い、ため息がもれました。

見知らぬ土地で言葉もわからない私たちは、韓国からついてきた刑事の案内で大和(やまと)ホテル[2]に入りました。洋食、和食、中国料理などがありましたが、どれも口に合わず、卵二つだけで空腹をしのぎました。一度部屋に入ると、外出もしないで閉じこもっていました。不安なあまり頭痛もひどかったのです。

共同(コンドン)丸は、次の日の午後ふたたび出航しました。

[1] 原文は陰暦の6月・7月
[2] 大連の中心部、チュンシャン[中山]広場に面したところにある。現在は大連賓館

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Google photo

You are commenting using your Google account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.