第1回皇太子妃選びの日

とうとう、1907年3月14日[1]になりました。一人の女性の運命とその家の興亡が決まる日です。その女性の人生というより天下の一大事といっても過言ではないでしょう。どんな国母が選ばれるかによって、一国の運命が左右されるのです。これほど重要なことはありません。

この日の朝、目がさめると次から次へと儀式があり、あまりの多さに頭痛がするほどでした。世話係の女性が私の顔を洗い、ふいて整えたあと、髪をといでくれました。顔には薄くおしろいを塗っただけでした。

髪の毛が少ないのに無理にゆい上げようとしたので、痛くて仕方ありません。どうにか髪で耳を隠して前頭部にゆい上げ、いろいろ飾りのついた冠をかぶりました。

軽い食事をすませてから深紅のチマと婚礼用の単衣(ひとえ)のキョンマギ[2]を着ました。キョンマギは民間の上層階級の人びとの婚礼用衣装で、宮廷のものは配色が少し違うだけでした。私のは胴の部分が黄緑、振り袖のチョゴリは赤紫、袖口は白でした。白いもめんのポソン[3]に鳳凰紋の刺繍が入った絹の靴を履(は)くと、ようやくしたくが整い、世話係に支えられて庭におりました。

庭には、宮中から差し向けられた輿(こし)が待機していました。輿(こし)をかつぐ4人は、黒い色の服を着て顔が隠れる仮面のようなものをつけていました。輿(こし)の前を先導する白いトゥルマギ[4]に黒のケジャ[5]を着た使者2人も出発の合図を待っていました。

私が輿(こし)に乗ると、その両側にも付き人が1人ずつ立ちました。祖母と母の召使いで、私を育ててくれた人たちです。彼女たちのチョゴリは空色、チョゴリの前を結ぶひもは赤紫、袖口は藍色でした。髪もきれいにゆい上げていました。

輿(こし)の後ろにも同じような服装の世話係がついて来ました。幼い私が乗るにしては、ずいぶんぎょうぎょうしい行列だと思いました。

10時になって、私を乗せた輿(こし)の行列は家を出て宮廷に向かいました。当時、私の家は笠洞(イプトン)から水標洞(スピョドン)[6]に引っ越していました。母が弟のチョネンを産んだあと、占い師に引越しをすすめられたからです。

スピョ洞から大漢(テハン)門[7]までは、とても遠い道のりでした。沿道には見物人が並んでいました。皇太子妃の候補者の娘たちを乗せた百五十余りの輿(こし)が行列していく光景は、まるで華やかなショーのようでした。【写真:大漢門】

輿(こし)は中和(チュンファ)門のところで止まりました。上級女官と若い宮女たちが出てきて、私のわきを抱え、おりるのを支えてくれました。宮殿の門の内側には、とても大きい釜のふたのようなものが置かれ、それに続いて細長いゴザがしいてありました。

私は両わきを支えられ、女官の指示に従って釜のふたのようなものを踏んでゴザの上を進みました。約1.5メートル幅の黄色いゴザは深紅の布で縁どりされ、皇帝の席の前まで続いていました。【写真:中和門】

[1] 陰暦では1907年2月1日
[2] キョンマギ
[3] たび
[4] 韓服の外套
[5] 快子、袖がなく、背中の縫い目が腰まで割れている伝統衣
[6] 水標洞
[7] トクス[徳寿]宮の大漢門

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